月かげ149号

今今と今という間に今ぞ無く

今という間に今ぞ過ぎ行く

                 道歌

 

 

 

木々の緑が日(ひ)一日(いちにち)と色濃くなって参りました。

下津浦では、みかんの木がたくさんの白い蕾(つぼみ)をつけ、今年の豊作が期待されます。

本山では、三月四月の大行事を終え、新緑の季節を迎えて、美しい若葉を眺めながら精進したいと思います。

 さて、念仏の念は今の心と書きます。文字通りに解釈すれば、今の心がみほとけに満たされているのが念仏と理解されます。また、私がみほとけと共にあるのが念仏だともいえます。

 さて、過去は既に過ぎ去り、未来は未だに来ていません。年齢を重ねてみると、子供の頃のことはよく覚えているのに、今では数日前の記憶さえ曖昧(あいまい)です。また、未来のことについては、将来のその日その時まで本当に自分の寿命があるのか保証はありません。そうしますと、今日一日をどう生きるかということが一番の問題です。

朝起きて、夜眠りにつくまで、今日この一日をいかに生きるのか。今の心にみほとけを宿し、みほとけの念(おも)いを心に満たして、あらゆる人々、あらゆる存在、あらゆる出来事にあたる・・・。それが念仏者の理想です。

 現実には、なかなかそのように日暮らしするのは難しいと思いますが、今日一日、今この瞬間をかけがえのない瞬間として、一生一度、一期一会(いちごいちえ)の生活を心がけたいと思います。 

南無阿弥陀仏    

 合掌

月かげ148号

菜の花や 月は東に 日は西に

 

 

            

 

           与謝(よさ)蕪村(ぶそん)

 

四月になりました。

阿彌陀寺でも、桜が花を咲かせ、楽しませてくれています。

さて、私は一年ほど前より俳句を始めましたが、最近になって、ようやく作句のこつを少しつかみかけたように思います。生まれてこの方、趣味らしい趣味もありませんでしたが、俳句に出合えてよかったと思います。

私が教えて頂いた作句の仕方は、情景を自分の感情を入れずに、そのまま写し取るという方法です。また、俳句は切れとスピードだとも教えて頂きました。

俳句を作ることによって、今まで目に止めなかったお寺の周囲に咲く小さな草花などを通して、季節の移ろいのひとこまが目に入るようになって参りました。自然はいつも私たちを楽しませてくれています。

この世と浄土とは、やがては一つの世界として重なり合う。美しい風景や綺麗な花々は、浄土の荘厳(しょうごん)であったと・・・。

宗祖法然上人のお歌にいわく、

阿弥陀仏と申すばかりをつとめにて

浄土の荘厳見るぞうれしき

 

南無阿弥陀仏    

 合掌

月かげ147号

 

今日彼岸

菩提(ぼだい)の種(たね)を蒔(ま)く日かな

 

            詠み人知らず

 

もうすぐお彼岸です。例年春のお彼岸の前後には、旧初午の日に、観音堂で観音さまのご供養をします。今年は十三日(日曜日)です。下津では、「七(なな)とこ参り」といって、下津町内七ヶ所のお堂で、この日厄除けのご回向があります。

当山にお祀りされている聖(しょう)観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)さまは、秘仏で、毎年この日だけ御開帳されます。聖観世音菩薩さまの頭上には阿弥陀仏がおられます。観音さまには色々なお姿があり、如意(にょい)輪(りん)観音・准胝(じゅんてい)観音・十一面(じゅういちめん)観音・馬頭(ばとう)観音・千手(せんじゅ)観音・聖(しょう)観音などがおられます。当山の観音堂の脇壇(わきだん)には、西国(さいごく)三十三観世音菩薩さまがお祀りされています。

当山で一番古い建物が観音堂です。観音堂は、天應智呑(てんのうちどん)上人(しょうにん)の代(寛永六年・一六二九年)、袋(ふくろ)谷(だに)より、現在の神田に移転されました。以降、何度か白蟻もついて、修復も重ねて参りましたが、建築の専門家の方々からは、見事な建物であると評価されています。

 旧初午の日に、お稲荷さまをご供養する神社も多いですが、この日、なぜ寺院で観音さまの会式をするかといいますと、それはダキニーというインドの神さまを由来とする茶枳(だき)尼天(にてん)が日本のお稲荷さまであり、お稲荷さまは、大きなご利益をもたらす神さまなのですが、粗末にすると罰(ばち)もきついといわれており、そのお稲荷さまと親しく、やわらかい功徳に変えるみほとけが観音さまであるからです。観音さまがお稲荷さまの大きな功徳を私たちに与えて下さるのです。

インドから伝わった仏教が、長い年月をかけて、日本の神さまと一体となり、今日の信仰となっております。

旧初午の会式が今日まで連綿と続いているのは、それだけ大きな功徳を私たちが授かってきたことが体験として私たちの身心に刻まれているからだと思います。

どうぞ皆さま、一年に一度の御開帳、ありがたい旧初午の会式にお参りされることをお勧め致します。

南無阿弥陀仏    

 合掌

 

月かげ146号

 

梅(うめ)一輪(いちりん) 一輪ほどの暖かさ

    

                  服部(はっとり)嵐(らん)雪(せつ)

 

 

寒い日が続きます。

さて、私は、ここ一年ほど、趣味で俳句を詠(よ)むようになりました。毎月、本山の「ひかり」紙に投句し、掲載して頂いています。 

俳句には、季語のほかにも細かい決まりごとがいくつかあって、その上で、情景を、切(き)れと、リズムで詠むのがよいと教えて頂きました。なかなか難しいですが、この年齢になって、ようやく趣味らしい趣味を持ててよかったと思っています。

俳句は、目の前の刹那(せつな)の光景を詠むということですが、それは、写真家が一瞬の真実を写真に写し取るのに似ていると思います。一瞬の中に永遠を観(み)ることに、新鮮さを感じます。

二月は梅花の季節、梅といえば、みなべですが、二十九年前の二月、亡き父と訪れたみなべの里は満開の梅でした。父が、「ここはおとぎ話の世界のようだ」と、風景に酔うたように申しておりましたが、年月の過ぎるのは早いもので、その父も、随暢師匠も、お浄土の人となり、私自身も還暦近くなって参りました。あの日、父と訪れたみなべの風景は、幻(まぼろし)ではなく、確かに現実の風景でありました。宗教的にいえば、一瞬と永遠とは相通(あいつう)ずるものです。

わが宗のみ教えは、安心(あんじん)の上の起(き)行(ぎょう)です。阿弥陀仏に救われた私は、自ら念仏を唱え、ひとに念仏を伝え、そして、自らの使命を果たしてゆくばかりです。

毎年、梅の花の季節になると、梅の花に包まれてよろこんでいた父の姿と、随暢師匠の初めての出遇いの情景がよみがえり、懐かしさがこみあげて参ります。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第145号

衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)

(衆生は無辺なれども誓(ちか)って度(ど)せんことを願う)

 

                  「四(し)弘(ぐ)誓願(せいがん)」より

 

新年おめでとうございます。

年頭にあたり、本年が皆々様にとりまして、よき一年となりますよう、お念じ申しあげます。

さて、昨年末、アマゾン(インターネット通販サイト)による僧侶の定額派遣(読経一回三万五千円)の受付が始まり、話題となりました。

この件について、僧侶の側からは、批判的な意見が多かったと思いますが、基本的に、布施と代金は違うということです。すなわち、仏道と商売の差です。 

僧侶にとって、仏道と商売の差はどこにあるか?これは、ひとえに僧侶自身の自覚の問題であると思います。本人が仏道と思っていれば仏道ですし、本人が商売と思っていればそれは仏道とは言えません。アマゾンの僧侶派遣が商売として成立するということのうらには、大きな問題があります。

信心は目には見えない心の世界です。信心のありがたさは、信心より縁遠い者にしてみれば理解不能でありましょう。

阿弥陀仏を拝んで、一体何がありがたいのか?」と尋ねられることがあります。

自らのいのちの根源として、ご先祖さまのその先におられる阿弥陀仏無量寿仏・永遠のいのちというみ名のほとけ)、そして、私を救い護ってくださる四十八願成就の阿弥陀仏・・・・。仏道の先には、必ず魂の救済があるのです。

商いは立派な職業です。しかし、読経を商売とすることには、強い違和感があると言わざるを得ません。アマゾンによる僧侶派遣のニュースは、僧侶自身が自らを省みるよい機会になったと思います。

本年も、共々に信心を深めて参りましょう。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第144号

草も木も枯れたる野辺(のべ)に

ただひとり

松のみ残る 弥陀の本願

 

                   知恩院御詠歌

 

 

本山の紅葉の賑わいも終わり、早や師走です。

今年も、多くの方々との出会い、再会と、別れがありました。特に今年は、印象深い別れが多かったように思います。

一般に死別は、永遠の別れと理解されます。確かに、肉体的に触れ合うことはできなくなります。しかし、『阿弥陀経』に「倶会一処(くえいっしょ)」とありますように、われわれは、やがては浄土で再会する身であります。

念仏に出遇えた方と、そうでない方の差は大きいと思います。

かつて、私の父は、微笑みを浮かべるかのように往生しました。その時、看取って頂いたお医者さまが、「このような亡くなられ方は初めてです。勉強になりました」と、おっしゃられました。父は生前、五重相伝を受けており、私の腕の中で念仏を称えながら眠るように往生しました。この時以来、私は阿弥陀さまによる臨終の来迎(らいこう)と、亡き人との浄土での再会を確信するようになりました。

念仏は、気休めの教えでも、道徳でもありません。現世でも、来世でも、幸福になるみ教えです。今まさに、ここで、出遇うべくして出遇った法門です。

年末にあたり、今年一年とわが身を振り返り、さらにお念仏をよろこばれることを念じ上げます。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ143号

あみだ仏(ぶ)に

そむる心のいろにいでば

あきのこずゑのたぐひ(い)ならまし

 

 

法然上人

 

 秋も深まりました。
 ここ下津浦の山並みにもみかんがたわわに実り、収穫が始まり、忙しい季節となりました。色づく美しいみかん山は、人と自然の調和の風景であり、豊かな思いへと誘(いざな)います。

人と自然の調和は、これからの人類の最も重要なテーマであろうと思います。
 自然に対しては調和、人に対しては非対立、自らに対しては知(ち)足(そく)が、尊いことだと思われます。これらを実感したとき、現世極楽の世界へと近づくのかもしれません。
 普通の人々が、普通の生活を送りながら、大いなるものにいだかれあることを実感し、そのいのちの行き着く末を知りつつ、弥陀の本願に安住して暮らす、それが今の私の理想です。美しい月をみほとけと仰ぎ、野道のお地蔵さんにそっと手を合わす・・・・。

秋は自然がひときわ身近に、優しく感ぜられる季節です。

ご本山のもみじも少しずつ色づいて参りました。今年も美しい紅葉を見せてくれることと思います。

南無阿弥陀仏    合掌