月かげ第153号

智者(ちしゃ)のふるまいをせずして

ただ一向(いっこう)に念仏すべし

 

 

 

法然上人

 

 

九月になりました。

リオオリンピックも終わりました。次は平成三十二年、東京オリンピックです。以前にもお知らせしましたように、阿彌陀寺では平成三十二年三月十一日(水)~十五日(日)まで、五日間にわたって五重相伝を厳修する予定です。

八月二十五日に放送されたNHKの「クローズアップ現代」は、臨床宗教師の取り組みについてのお話でした。日本で去年一年間に亡くなった人は約百三十万人ということです。日本は多死社会に突入したといわれています。しかし、死に対する心がまえのできている人は少ないようです。そこで、臨床宗教師が大きな役割を果たすということでした。人が余命わずかとなったとき、穏やかな死を迎えたいのは当然のことです。特に信仰に縁のなかった方にとっては切実であろうと思います。

浄土門には臨終の善知識ということばがあります。かつて、師匠の橋本随暢のお説教の中で、師匠が檀信徒の臨終に立ち会いお念仏を授けたというお話をされていました。臨終に阿弥陀仏が来迎し、極楽浄土へ導いて下さるということは、念仏者にとってはあたりまえのことですが、縁のない人からみれば信じがたいことでしょう。ありがたいことに、紀州には古来より、お念仏が土(ど)徳(とく)として染みついております。しかし、土徳だけでは正しい信仰は身につきません。そこで西山浄土宗では五重相伝を檀信徒の方々にお勧めしています。

宗祖法然上人のみ教えは、『一枚(いちまい)起請文(きしょうもん)』の「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」に極まります。その意味は、「素直に念仏を唱えてお浄土を願う」という意味です。

現在、臨床宗教師の方々が取り組んでおられる活動は、わが宗におきましては、古(いにしえ)より五重相伝と日常の念仏信仰、そして臨終行儀によって既に行われておりました。今、その取り組みが昔より希薄になっていることは否(いな)めません。

五重相伝は、ただ法名(戒名)を授かるための儀式ではなく、お念仏の相承(そうじょう)です。ですから、何度でも受けて頂くことができます。

檀信徒の皆さま方には、平成三十二年の五重相伝をお受け頂くことを強くお勧め致します。

   南無阿弥陀仏 

 合掌

月かげ第152号

「流派(ながれ)をくむ者 はるかにその源(みなもと)を尋ね、枝葉を愛する者 つとめて    その根を培(つちか)う」            

 

      「大永(だいえい)の御忌(ぎょき)鳳(ほう)詔(しょう)」より

 

お盆の月となりました。

さて、去る七月二十一日午前十時より、総本山光明寺御影堂(みえどう)におきまして、第八十六世法主(ほっしゅ)・堀本賢順御前さまの入山式が厳修されました。

そのとき伺った御前さまのご垂示(すいじ)に感動しました。

以下、私の記憶のままに、御前さまのおことばをお伝え致します。

「水の流れゆく、その源(みなもと)が清ければ、流れる先々を清め潤してゆく。源が濁っていれば、流れる先々も濁りゆく。だから、ご本山は清らかでなければならない・・・・。

そのように私は、精進して参りたいと思います。」

御前さまのおことばを深く心に刻み、不肖ながら私自身、精一杯勤めて参りたいと思います。

   南無阿弥陀仏 

              合掌

 

月かげ第151号

 

 

海風(うみかぜ)の薫(かお)りて清(すが)し 下津(しもつ)浦(うら)

 

            

 

          月空

 

 

梅雨も終盤にさしかかり、まもなく夏本番です。

去る六月二十二日、総本山光明寺護持会役員会事前打ち合わせで、小田豊護持会長(前長岡京市長)とお話する機会がありました。その会話の中で小田氏が、「地球を支配しているのは結局のところ人間です。だから、人間の行為によって、地球環境はよくも悪くもなります。いかにそこを自覚し、コントロールしてゆくかが大切ですし、それができる人間を育てることが重要ですね」とおっしゃられました。いつの時代もどこかで戦争が続いています。日本においても、沖縄をはじめ、各地の米軍基地がある限り、戦争を身近に感じざるを得ません。また、イギリスのEU離脱問題は、今後の世界経済に暗い影を落とし、日本にとっても明るいニュースとはいえません。世界が混沌としてきている・・・。

この先、地球も人類も、想像を超えた未来が待っているのかもしれません。

しかしながら、私たちにはお念仏があります。八百五十年前の法然上人の時代、日本は戦乱と飢饉地震などで殺伐とした環境でした。人々はみな、法然上人の説く本願念仏に導かれ、日本の津津浦浦からお念仏の声が聞こえていたということです。

世は如何にありとも

人はいかにありとも

愚かしきことの いかに多く

われを 悩ますとも

まことの道

ひとすじにまもりて

迷わず 臆せず

みほとけとともに

われ 強く 生きぬかん

月かげ第150号

 

大いなるものにいだかれあることを

けさふく風のすずしさにしる

                    山田無文老師

 

 

 

五月二十七日の朝のことでした。

本山の夏季の朝の勤行(ごんぎょう)は、五時半より始まります。その少し前、外は夜来の雨が上がりかけ、気温は二十三度程、少しむしむししていたため、本堂の障子は開け放たれておりました。やがて、お勤めが始まり少したったとき、涼(すず)やかな微風(びふう)を背中に感じました。この微風は、かすかに長く続き、勤行が終わるまで、私を包んでおりました。その時、私は、学生時代の恩師、山田無文老師の「大いなるものにいだかれあることをけさふく風のすずしさにしる」というお歌を思い出し、一切の存在は、私を包み育んでいてくださることを、今更ながら再確認し、実感致しました。

「大宇宙の救済意志を阿弥陀という。それを知らず理解できない凡夫のために、如来四十八願を立て、阿弥陀仏となって救済したもうた」、かつて、本山第八十一世の上田良準御前さまより伺ったおことばです。

 折しも、二十七日の午後には、アメリカのオバマ氏が、大統領として初めて広島を訪問されました。真に活気的な一歩であることを期待します。

大自然は、阿弥陀の救済の面と、荒ぶる神の両面をもっています。

 熊本地震被災者の方々には、心よりお見舞い申し上げます。かつて、私の郷里の新潟は、中越地震に見舞われました。東日本大震災も、阪神淡路大震災も、日本に暮らす限り震災は身近です。いつ南海地震が起こってもおかしくないといわれます。

だからこそ、人間同士は争(あらそ)ってはいけない・・・。そして、止(し)悪(あく)(悪いことをしない)・修(しゅ)善(ぜん)(よいことをする)・利生(りしょう)(ひとのためになることをする)の三聚(さんじゅ)浄(じょう)戒(かい)を持(たも)たなければならない・・・。

 人生において、最もありがたき縁は仏縁です。更に言えば、この私(わたくし)一人(いちにん)を救いたもう念仏の縁であります。

 共々にお念仏をよろこんで参りましょう。

    南無阿弥陀仏    

 合掌

月かげ149号

今今と今という間に今ぞ無く

今という間に今ぞ過ぎ行く

                 道歌

 

 

 

木々の緑が日(ひ)一日(いちにち)と色濃くなって参りました。

下津浦では、みかんの木がたくさんの白い蕾(つぼみ)をつけ、今年の豊作が期待されます。

本山では、三月四月の大行事を終え、新緑の季節を迎えて、美しい若葉を眺めながら精進したいと思います。

 さて、念仏の念は今の心と書きます。文字通りに解釈すれば、今の心がみほとけに満たされているのが念仏と理解されます。また、私がみほとけと共にあるのが念仏だともいえます。

 さて、過去は既に過ぎ去り、未来は未だに来ていません。年齢を重ねてみると、子供の頃のことはよく覚えているのに、今では数日前の記憶さえ曖昧(あいまい)です。また、未来のことについては、将来のその日その時まで本当に自分の寿命があるのか保証はありません。そうしますと、今日一日をどう生きるかということが一番の問題です。

朝起きて、夜眠りにつくまで、今日この一日をいかに生きるのか。今の心にみほとけを宿し、みほとけの念(おも)いを心に満たして、あらゆる人々、あらゆる存在、あらゆる出来事にあたる・・・。それが念仏者の理想です。

 現実には、なかなかそのように日暮らしするのは難しいと思いますが、今日一日、今この瞬間をかけがえのない瞬間として、一生一度、一期一会(いちごいちえ)の生活を心がけたいと思います。 

南無阿弥陀仏    

 合掌

月かげ148号

菜の花や 月は東に 日は西に

 

 

            

 

           与謝(よさ)蕪村(ぶそん)

 

四月になりました。

阿彌陀寺でも、桜が花を咲かせ、楽しませてくれています。

さて、私は一年ほど前より俳句を始めましたが、最近になって、ようやく作句のこつを少しつかみかけたように思います。生まれてこの方、趣味らしい趣味もありませんでしたが、俳句に出合えてよかったと思います。

私が教えて頂いた作句の仕方は、情景を自分の感情を入れずに、そのまま写し取るという方法です。また、俳句は切れとスピードだとも教えて頂きました。

俳句を作ることによって、今まで目に止めなかったお寺の周囲に咲く小さな草花などを通して、季節の移ろいのひとこまが目に入るようになって参りました。自然はいつも私たちを楽しませてくれています。

この世と浄土とは、やがては一つの世界として重なり合う。美しい風景や綺麗な花々は、浄土の荘厳(しょうごん)であったと・・・。

宗祖法然上人のお歌にいわく、

阿弥陀仏と申すばかりをつとめにて

浄土の荘厳見るぞうれしき

 

南無阿弥陀仏    

 合掌

月かげ147号

 

今日彼岸

菩提(ぼだい)の種(たね)を蒔(ま)く日かな

 

            詠み人知らず

 

もうすぐお彼岸です。例年春のお彼岸の前後には、旧初午の日に、観音堂で観音さまのご供養をします。今年は十三日(日曜日)です。下津では、「七(なな)とこ参り」といって、下津町内七ヶ所のお堂で、この日厄除けのご回向があります。

当山にお祀りされている聖(しょう)観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)さまは、秘仏で、毎年この日だけ御開帳されます。聖観世音菩薩さまの頭上には阿弥陀仏がおられます。観音さまには色々なお姿があり、如意(にょい)輪(りん)観音・准胝(じゅんてい)観音・十一面(じゅういちめん)観音・馬頭(ばとう)観音・千手(せんじゅ)観音・聖(しょう)観音などがおられます。当山の観音堂の脇壇(わきだん)には、西国(さいごく)三十三観世音菩薩さまがお祀りされています。

当山で一番古い建物が観音堂です。観音堂は、天應智呑(てんのうちどん)上人(しょうにん)の代(寛永六年・一六二九年)、袋(ふくろ)谷(だに)より、現在の神田に移転されました。以降、何度か白蟻もついて、修復も重ねて参りましたが、建築の専門家の方々からは、見事な建物であると評価されています。

 旧初午の日に、お稲荷さまをご供養する神社も多いですが、この日、なぜ寺院で観音さまの会式をするかといいますと、それはダキニーというインドの神さまを由来とする茶枳(だき)尼天(にてん)が日本のお稲荷さまであり、お稲荷さまは、大きなご利益をもたらす神さまなのですが、粗末にすると罰(ばち)もきついといわれており、そのお稲荷さまと親しく、やわらかい功徳に変えるみほとけが観音さまであるからです。観音さまがお稲荷さまの大きな功徳を私たちに与えて下さるのです。

インドから伝わった仏教が、長い年月をかけて、日本の神さまと一体となり、今日の信仰となっております。

旧初午の会式が今日まで連綿と続いているのは、それだけ大きな功徳を私たちが授かってきたことが体験として私たちの身心に刻まれているからだと思います。

どうぞ皆さま、一年に一度の御開帳、ありがたい旧初午の会式にお参りされることをお勧め致します。

南無阿弥陀仏    

 合掌