月かげ第155号

浄土門 ここにはじまる 照(てる)紅葉(もみじ)

 

 

 

鈴(すず)鹿野(かの)風呂(ぶろ)

 

 

 

今年も紅葉の季節を迎えました。

ご本山のもみじも少しずつ色づいて参りました。去る十月二十六日、ご本山では第七七〇回の西山忌が厳修されました。私は初めて称讃(しょうさん)導師(どうし)を勤めさせて頂きました。

さて、西山上人のみ教えは、安心(あんじん)の上(うえ)の起(き)行(ぎょう)に極まります。

安心(あんじん)とは、阿弥陀仏に救済され切った心持ちをいいます。つまり、宗教的安心(あんしん)です。

起(き)行(ぎょう)とは、起(た)ち行(はたら)くという意味です。一つには自ら念仏を唱えること。二つには、ひとに念仏を伝えること。三つには、安心(あんじん)を得(え)て自らの使命に生きるということです。

西山の念仏は歓喜(かんぎ)の念仏、また感謝の念仏といわれます。

      西山上人御詠(ぎょえい)

生きて身をはちすの上に宿さずば

念仏申す甲斐(かい)やなからん

この世には苦しいことや悲しいことや辛(つら)いことが多くあります。しかし、夜明けの来ない夜はない、春の来ない冬はない、といわれるように、必ず未来は開かれてゆきます。 

苦しいときも、悲しいときも、よろこびのときも、阿弥陀さまが必ず寄り添って見(み)護(まも)ってくださることを忘れずに歩んで参りましょう。

南無阿弥陀仏     合掌

 

月かげ第154号

 

「浄土の法門と遊(ゆう)蓮房(れんぼう)とにあへ(え)るこそ、人界(にんがい)の生(しょう)をうけたる思出(おもひで)にて侍(はべ)れ」

 

 

法然上人

 

 

 

十月になりました。

十月一日より、ご本山の宗務総長・執事長に就任致しました。四年間の大役です。心して全うしたいと思います。

この四年間は、平成二十三年の宗祖法然上人八〇〇年大遠忌と、平成三十六年の宗祖法然上人立教開宗八五〇年の間に位置し、穏やかな四年間であろうと思われます。

しかしながら、現在一般に、家族葬、墓じまい、寺離れが進み、各教団において地道な取り組みが始まっております。もう一度、脚下(きゃっか)照顧(しょうこ)の精神で自己を見つめるところから始めたいと思います。

さて、総本山光明寺は、浄土門根元地(こんげんち)といわれます。これは、ご本山が、法然上人四十三歳の春、初めて本願念仏を、粟生の庄屋、茂(も)右(え)衛門(もん)さん夫妻に説かれた立教開宗の地であること、遊(ゆう)蓮房(れんぼう)円(えん)照(しょう)という僧侶と約二年間にわたって人生最良の日々を過ごされた法然上人思い出の地であること、法然上人がご往生の後、滅後十六年を経て、ご火葬されてご芳(ほう)骨(こつ)をお祀りするご本(ほん)廟(びょう)が光明寺にあることに由来します。

ご本山の総門を一歩くぐると、身も心も浄まってゆくのがわかります。光明寺は、ありがたき霊地であります。

今年も十一月十二日(土)より、紅葉期特別入山が始まります。ご本山の秋の紅葉は格別です。入山にはチケットが必要ですが、檀家さんは無料です。阿彌陀寺に問い合わせて下さればチケットをお渡し致します。

一度、紅葉のご本山をお楽しみ頂ければと思います。

 南無阿弥陀仏  

  合掌

月かげ第153号

智者(ちしゃ)のふるまいをせずして

ただ一向(いっこう)に念仏すべし

 

 

 

法然上人

 

 

九月になりました。

リオオリンピックも終わりました。次は平成三十二年、東京オリンピックです。以前にもお知らせしましたように、阿彌陀寺では平成三十二年三月十一日(水)~十五日(日)まで、五日間にわたって五重相伝を厳修する予定です。

八月二十五日に放送されたNHKの「クローズアップ現代」は、臨床宗教師の取り組みについてのお話でした。日本で去年一年間に亡くなった人は約百三十万人ということです。日本は多死社会に突入したといわれています。しかし、死に対する心がまえのできている人は少ないようです。そこで、臨床宗教師が大きな役割を果たすということでした。人が余命わずかとなったとき、穏やかな死を迎えたいのは当然のことです。特に信仰に縁のなかった方にとっては切実であろうと思います。

浄土門には臨終の善知識ということばがあります。かつて、師匠の橋本随暢のお説教の中で、師匠が檀信徒の臨終に立ち会いお念仏を授けたというお話をされていました。臨終に阿弥陀仏が来迎し、極楽浄土へ導いて下さるということは、念仏者にとってはあたりまえのことですが、縁のない人からみれば信じがたいことでしょう。ありがたいことに、紀州には古来より、お念仏が土(ど)徳(とく)として染みついております。しかし、土徳だけでは正しい信仰は身につきません。そこで西山浄土宗では五重相伝を檀信徒の方々にお勧めしています。

宗祖法然上人のみ教えは、『一枚(いちまい)起請文(きしょうもん)』の「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」に極まります。その意味は、「素直に念仏を唱えてお浄土を願う」という意味です。

現在、臨床宗教師の方々が取り組んでおられる活動は、わが宗におきましては、古(いにしえ)より五重相伝と日常の念仏信仰、そして臨終行儀によって既に行われておりました。今、その取り組みが昔より希薄になっていることは否(いな)めません。

五重相伝は、ただ法名(戒名)を授かるための儀式ではなく、お念仏の相承(そうじょう)です。ですから、何度でも受けて頂くことができます。

檀信徒の皆さま方には、平成三十二年の五重相伝をお受け頂くことを強くお勧め致します。

   南無阿弥陀仏 

 合掌

月かげ第152号

「流派(ながれ)をくむ者 はるかにその源(みなもと)を尋ね、枝葉を愛する者 つとめて    その根を培(つちか)う」            

 

      「大永(だいえい)の御忌(ぎょき)鳳(ほう)詔(しょう)」より

 

お盆の月となりました。

さて、去る七月二十一日午前十時より、総本山光明寺御影堂(みえどう)におきまして、第八十六世法主(ほっしゅ)・堀本賢順御前さまの入山式が厳修されました。

そのとき伺った御前さまのご垂示(すいじ)に感動しました。

以下、私の記憶のままに、御前さまのおことばをお伝え致します。

「水の流れゆく、その源(みなもと)が清ければ、流れる先々を清め潤してゆく。源が濁っていれば、流れる先々も濁りゆく。だから、ご本山は清らかでなければならない・・・・。

そのように私は、精進して参りたいと思います。」

御前さまのおことばを深く心に刻み、不肖ながら私自身、精一杯勤めて参りたいと思います。

   南無阿弥陀仏 

              合掌

 

月かげ第151号

 

 

海風(うみかぜ)の薫(かお)りて清(すが)し 下津(しもつ)浦(うら)

 

            

 

          月空

 

 

梅雨も終盤にさしかかり、まもなく夏本番です。

去る六月二十二日、総本山光明寺護持会役員会事前打ち合わせで、小田豊護持会長(前長岡京市長)とお話する機会がありました。その会話の中で小田氏が、「地球を支配しているのは結局のところ人間です。だから、人間の行為によって、地球環境はよくも悪くもなります。いかにそこを自覚し、コントロールしてゆくかが大切ですし、それができる人間を育てることが重要ですね」とおっしゃられました。いつの時代もどこかで戦争が続いています。日本においても、沖縄をはじめ、各地の米軍基地がある限り、戦争を身近に感じざるを得ません。また、イギリスのEU離脱問題は、今後の世界経済に暗い影を落とし、日本にとっても明るいニュースとはいえません。世界が混沌としてきている・・・。

この先、地球も人類も、想像を超えた未来が待っているのかもしれません。

しかしながら、私たちにはお念仏があります。八百五十年前の法然上人の時代、日本は戦乱と飢饉地震などで殺伐とした環境でした。人々はみな、法然上人の説く本願念仏に導かれ、日本の津津浦浦からお念仏の声が聞こえていたということです。

世は如何にありとも

人はいかにありとも

愚かしきことの いかに多く

われを 悩ますとも

まことの道

ひとすじにまもりて

迷わず 臆せず

みほとけとともに

われ 強く 生きぬかん

月かげ第150号

 

大いなるものにいだかれあることを

けさふく風のすずしさにしる

                    山田無文老師

 

 

 

五月二十七日の朝のことでした。

本山の夏季の朝の勤行(ごんぎょう)は、五時半より始まります。その少し前、外は夜来の雨が上がりかけ、気温は二十三度程、少しむしむししていたため、本堂の障子は開け放たれておりました。やがて、お勤めが始まり少したったとき、涼(すず)やかな微風(びふう)を背中に感じました。この微風は、かすかに長く続き、勤行が終わるまで、私を包んでおりました。その時、私は、学生時代の恩師、山田無文老師の「大いなるものにいだかれあることをけさふく風のすずしさにしる」というお歌を思い出し、一切の存在は、私を包み育んでいてくださることを、今更ながら再確認し、実感致しました。

「大宇宙の救済意志を阿弥陀という。それを知らず理解できない凡夫のために、如来四十八願を立て、阿弥陀仏となって救済したもうた」、かつて、本山第八十一世の上田良準御前さまより伺ったおことばです。

 折しも、二十七日の午後には、アメリカのオバマ氏が、大統領として初めて広島を訪問されました。真に活気的な一歩であることを期待します。

大自然は、阿弥陀の救済の面と、荒ぶる神の両面をもっています。

 熊本地震被災者の方々には、心よりお見舞い申し上げます。かつて、私の郷里の新潟は、中越地震に見舞われました。東日本大震災も、阪神淡路大震災も、日本に暮らす限り震災は身近です。いつ南海地震が起こってもおかしくないといわれます。

だからこそ、人間同士は争(あらそ)ってはいけない・・・。そして、止(し)悪(あく)(悪いことをしない)・修(しゅ)善(ぜん)(よいことをする)・利生(りしょう)(ひとのためになることをする)の三聚(さんじゅ)浄(じょう)戒(かい)を持(たも)たなければならない・・・。

 人生において、最もありがたき縁は仏縁です。更に言えば、この私(わたくし)一人(いちにん)を救いたもう念仏の縁であります。

 共々にお念仏をよろこんで参りましょう。

    南無阿弥陀仏    

 合掌

月かげ149号

今今と今という間に今ぞ無く

今という間に今ぞ過ぎ行く

                 道歌

 

 

 

木々の緑が日(ひ)一日(いちにち)と色濃くなって参りました。

下津浦では、みかんの木がたくさんの白い蕾(つぼみ)をつけ、今年の豊作が期待されます。

本山では、三月四月の大行事を終え、新緑の季節を迎えて、美しい若葉を眺めながら精進したいと思います。

 さて、念仏の念は今の心と書きます。文字通りに解釈すれば、今の心がみほとけに満たされているのが念仏と理解されます。また、私がみほとけと共にあるのが念仏だともいえます。

 さて、過去は既に過ぎ去り、未来は未だに来ていません。年齢を重ねてみると、子供の頃のことはよく覚えているのに、今では数日前の記憶さえ曖昧(あいまい)です。また、未来のことについては、将来のその日その時まで本当に自分の寿命があるのか保証はありません。そうしますと、今日一日をどう生きるかということが一番の問題です。

朝起きて、夜眠りにつくまで、今日この一日をいかに生きるのか。今の心にみほとけを宿し、みほとけの念(おも)いを心に満たして、あらゆる人々、あらゆる存在、あらゆる出来事にあたる・・・。それが念仏者の理想です。

 現実には、なかなかそのように日暮らしするのは難しいと思いますが、今日一日、今この瞬間をかけがえのない瞬間として、一生一度、一期一会(いちごいちえ)の生活を心がけたいと思います。 

南無阿弥陀仏    

 合掌