月かげ第160号

願わくは 花の下にて春死なん

そのきさらぎの 望月(もちづき)のころ

 

 

西行(さいぎょう)法師

 

四月になりました。

桜を始め、野山に花が咲いています。花は、ただそこに咲いているだけで人の心を慰(なぐさ)めてくれます。

さて、私が俳句を作るようになって丸二年が過ぎました。相変わらず才能は開花しませんが、作句についていくつか教えて頂くなかで、一つ、「あっ」と頷(うなず)いたことがあります。

それは、俳句は風景をそのまま句に写すことによって感情表現をするということで

す。感情そのものを俳句に詠(よ)んではいけない。風景によって感情を表(あらわ)す。例(たと)えば、「灯(ともしび)」と言えば、そこに、ただのあかりだけではない温(あたた)かさを感じ、「ふきのとう」と言えば、春の訪(おとず)れを感じるようにです。そして、作句を縁として気づいたことがあります。それは既にどなたかがおっしゃっていることかもしれませんが、私なりの発見です。

すなわち

  • 癒(いや)す者は癒される
  • 与える者は与えられる
  • よろこぶ者はよろこばれる

他にも

  • 微笑(ほほえ)む者は微笑まれる
  • 心開く者は心開かれる
  • 慰(なぐさ)める者は慰(なぐさ)められる
  • 助ける者は助けられる
  • 寄(よ)り添(そ)う者は寄り添われる  

自(みずか)ら行(おこな)う者は、同じくその恩恵を受けるという事実です。

曰(いわ)く、

如来を信ずる者は如来の御恵みにあずかる」(関本諦承(たいじょう)上人)

よろこべばよろこびごとがよろこんでよろこびあつめよろこびにくる

(善因善果のうた)

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第159号

阿弥陀仏、われを摂取したもうと

信ずるひとを念仏衆生という。

   

 

(範空上人)

 

春が近づいて参りました。

梅が咲き、水仙が咲き、木蓮の蕾がふくらんでいます。

私は今、本山で念仏の日暮らしを過ごしています。具体的に言いますと、堀本御法主(ごほっしゅ)と親しくさせて頂くなかで、毎日阿弥陀仏のお慈悲に感謝して暮らしているということです。それは、当然私ひとりにとどまることではありません。堀本御法主に接する多くの方々が、念仏のよろこびに浴(よく)し、阿弥陀仏に感謝しています。

善(ぜん)知識(ちしき)ということの大切さが身にしみます。そして今、自分が堀本御法主のおそば近くに侍(はべ)らせて頂けていることの幸いをしみじみと感じるのです。

本山での暮らしには、なかなか厳しいものがあります。時間に縛られ、自由は少ないです。難しい問題にも対応しなければなりません。

しかし、「学仏(がくぶつ)大悲(だいひ)心(しん)」、「慈悲(じひ)無敵(むてき)」、「同体(どうたいの)大悲(だいひ)」、「同事(どうじ)」の心で、ことに当たりますと、大概のことは解決致します。

しんどいことも多いですが、逆に、面白いなあ、ありがたいなあと思うことも多いです。

どのような宿縁(しゅくえん)のおかげさまか、堀本御法主にお仕(つか)えできる幸福をかみしめている今日この頃です。  

南無阿弥陀仏    合掌

月かげ第157号

正月の子供に成(なり)て見(み)たき哉(かな)

 

 

           小林一茶

 

 

 明けましておめでとうございます。

年頭にあたり、本年の皆みなさまのご健勝をお念じ申し上げます。

さて、年齢を重ねるごとに、新年を迎える心持ちも少しずつ変わって参りました。子供の頃は、厳かな気持ちをもちつつも、ただ嬉しく新年を迎えていたように思います。今は、世界と我が身の平安な日常が末永く続くようにという思いが強いように感じます。

昨年は、十月一日に宗務総長に就任し、また、年末には狭心症で入院するという変化の多い一年でした。

健康面も、いよいよ真剣に取り組まねばならない時期が来たことを痛感しています。

ご本山では、十二月十四日に、堀本御前さまの晋山式を厳修致しました。私は、四年間の任期を堀本御前さまにお仕(つか)えして、本願念仏の弘(ぐ)通(づう)、そして、浄土門根元地たるご本山と西山浄土宗の弥栄(いやさか)に寄与したいと考えています。

また、平成三十二年に当山の五重相伝を控え、少しずつ準備を進めて参ります。

昨年末の御前さまの晋山式、そして、自らの狭心症による入院を通じて感じたことは、弥陀の御加護の一言に尽きます。

晋山式の前日、十三日より当日十四日の午前三時までは、強い雨が降っていました。十四日の朝には雨は上がって青空となっておりましたが、まだ黒い雲がかかっていました。午前十時、開門式を終えた御前さまの行列が表参道の女人坂を上がって行く途中、ふと空を見上げますと、黒い雲が左右に分かれ、御本廟の上まで深く澄んだ青空が広がっておりました。このとき私は、仏天(ぶってん)の御加護ということを深く肝に銘じました。

また、十二月二十一日から二十三日にかけて、狭心症長岡京市済生会京都府病院に入院しましたが、このときには、いよいよ更に身を慎むべき時節が巡って来たことを強く感じました。

全ては弥陀のおはからい、御加護であることが身に染みます。

本年も皆さまと共に、お念仏をよろこんで参りたいと思います。

南無阿弥陀仏     合掌

月かげ第156号

 

阿弥陀仏、此(ここ)を去ること遠からず」

  

                   『仏説観無量寿経

 

 今年も師走となりました。

一年は本当に早いものです。そして、私自身にとりましては、今年は多くの方々との終(つい)の別れがありました。

「あっという間の人生、ちゃっとのうや」と随暢師匠が申しておりましたが、諸行は無常です。

年齢を重ねるごとに思うことは、やはり、信仰との巡り合いの大切さです。私がもし念仏と出遇っていなければ、どんな人生を過ごしていたかなあと思います。

阿弥陀さまと二人連れの人生、ちょうどよくないはずがない」と、師匠に教えられました。また、「夫婦は、信仰という同一方向を仰げ」とも教えられました。師の恩は深いと思います。

さて、一ヶ月程前のご本山の堀本御法主(ごほっしゅ)の御垂示(ごすいじ)に、「お釈迦さまのみ教えの究極は、心に感謝、身に合掌、口にお念仏です」というおことばがありました。これは、幼子(おさなご)にも通じるみ教えです。「心にありがとう、手を合わせ、口に、あん、とお唱えする・・・」

幼児期の信仰との出合いの大切さが思われます。振り返ってみれば、私の父方の祖父母も、母方の祖父母も、信心深かったように思います。

多くの善(ぜん)知識(ちしき)の方々との邂逅(かいこう)が、私の人生を形づくって下さっている・・・。

仏縁(ぶつえん)と仏(ぶっ)恩(とん)に思いを致す今日この頃です。

 

南無阿弥陀仏     合掌

月かげ第155号

浄土門 ここにはじまる 照(てる)紅葉(もみじ)

 

 

 

鈴(すず)鹿野(かの)風呂(ぶろ)

 

 

 

今年も紅葉の季節を迎えました。

ご本山のもみじも少しずつ色づいて参りました。去る十月二十六日、ご本山では第七七〇回の西山忌が厳修されました。私は初めて称讃(しょうさん)導師(どうし)を勤めさせて頂きました。

さて、西山上人のみ教えは、安心(あんじん)の上(うえ)の起(き)行(ぎょう)に極まります。

安心(あんじん)とは、阿弥陀仏に救済され切った心持ちをいいます。つまり、宗教的安心(あんしん)です。

起(き)行(ぎょう)とは、起(た)ち行(はたら)くという意味です。一つには自ら念仏を唱えること。二つには、ひとに念仏を伝えること。三つには、安心(あんじん)を得(え)て自らの使命に生きるということです。

西山の念仏は歓喜(かんぎ)の念仏、また感謝の念仏といわれます。

      西山上人御詠(ぎょえい)

生きて身をはちすの上に宿さずば

念仏申す甲斐(かい)やなからん

この世には苦しいことや悲しいことや辛(つら)いことが多くあります。しかし、夜明けの来ない夜はない、春の来ない冬はない、といわれるように、必ず未来は開かれてゆきます。 

苦しいときも、悲しいときも、よろこびのときも、阿弥陀さまが必ず寄り添って見(み)護(まも)ってくださることを忘れずに歩んで参りましょう。

南無阿弥陀仏     合掌

 

月かげ第154号

 

「浄土の法門と遊(ゆう)蓮房(れんぼう)とにあへ(え)るこそ、人界(にんがい)の生(しょう)をうけたる思出(おもひで)にて侍(はべ)れ」

 

 

法然上人

 

 

 

十月になりました。

十月一日より、ご本山の宗務総長・執事長に就任致しました。四年間の大役です。心して全うしたいと思います。

この四年間は、平成二十三年の宗祖法然上人八〇〇年大遠忌と、平成三十六年の宗祖法然上人立教開宗八五〇年の間に位置し、穏やかな四年間であろうと思われます。

しかしながら、現在一般に、家族葬、墓じまい、寺離れが進み、各教団において地道な取り組みが始まっております。もう一度、脚下(きゃっか)照顧(しょうこ)の精神で自己を見つめるところから始めたいと思います。

さて、総本山光明寺は、浄土門根元地(こんげんち)といわれます。これは、ご本山が、法然上人四十三歳の春、初めて本願念仏を、粟生の庄屋、茂(も)右(え)衛門(もん)さん夫妻に説かれた立教開宗の地であること、遊(ゆう)蓮房(れんぼう)円(えん)照(しょう)という僧侶と約二年間にわたって人生最良の日々を過ごされた法然上人思い出の地であること、法然上人がご往生の後、滅後十六年を経て、ご火葬されてご芳(ほう)骨(こつ)をお祀りするご本(ほん)廟(びょう)が光明寺にあることに由来します。

ご本山の総門を一歩くぐると、身も心も浄まってゆくのがわかります。光明寺は、ありがたき霊地であります。

今年も十一月十二日(土)より、紅葉期特別入山が始まります。ご本山の秋の紅葉は格別です。入山にはチケットが必要ですが、檀家さんは無料です。阿彌陀寺に問い合わせて下さればチケットをお渡し致します。

一度、紅葉のご本山をお楽しみ頂ければと思います。

 南無阿弥陀仏  

  合掌

月かげ第153号

智者(ちしゃ)のふるまいをせずして

ただ一向(いっこう)に念仏すべし

 

 

 

法然上人

 

 

九月になりました。

リオオリンピックも終わりました。次は平成三十二年、東京オリンピックです。以前にもお知らせしましたように、阿彌陀寺では平成三十二年三月十一日(水)~十五日(日)まで、五日間にわたって五重相伝を厳修する予定です。

八月二十五日に放送されたNHKの「クローズアップ現代」は、臨床宗教師の取り組みについてのお話でした。日本で去年一年間に亡くなった人は約百三十万人ということです。日本は多死社会に突入したといわれています。しかし、死に対する心がまえのできている人は少ないようです。そこで、臨床宗教師が大きな役割を果たすということでした。人が余命わずかとなったとき、穏やかな死を迎えたいのは当然のことです。特に信仰に縁のなかった方にとっては切実であろうと思います。

浄土門には臨終の善知識ということばがあります。かつて、師匠の橋本随暢のお説教の中で、師匠が檀信徒の臨終に立ち会いお念仏を授けたというお話をされていました。臨終に阿弥陀仏が来迎し、極楽浄土へ導いて下さるということは、念仏者にとってはあたりまえのことですが、縁のない人からみれば信じがたいことでしょう。ありがたいことに、紀州には古来より、お念仏が土(ど)徳(とく)として染みついております。しかし、土徳だけでは正しい信仰は身につきません。そこで西山浄土宗では五重相伝を檀信徒の方々にお勧めしています。

宗祖法然上人のみ教えは、『一枚(いちまい)起請文(きしょうもん)』の「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」に極まります。その意味は、「素直に念仏を唱えてお浄土を願う」という意味です。

現在、臨床宗教師の方々が取り組んでおられる活動は、わが宗におきましては、古(いにしえ)より五重相伝と日常の念仏信仰、そして臨終行儀によって既に行われておりました。今、その取り組みが昔より希薄になっていることは否(いな)めません。

五重相伝は、ただ法名(戒名)を授かるための儀式ではなく、お念仏の相承(そうじょう)です。ですから、何度でも受けて頂くことができます。

檀信徒の皆さま方には、平成三十二年の五重相伝をお受け頂くことを強くお勧め致します。

   南無阿弥陀仏 

 合掌