願わくは 花の下にて春死なん
そのきさらぎの 望月(もちづき)のころ
西行(さいぎょう)法師
四月になりました。
桜を始め、野山に花が咲いています。花は、ただそこに咲いているだけで人の心を慰(なぐさ)めてくれます。
さて、私が俳句を作るようになって丸二年が過ぎました。相変わらず才能は開花しませんが、作句についていくつか教えて頂くなかで、一つ、「あっ」と頷(うなず)いたことがあります。
それは、俳句は風景をそのまま句に写すことによって感情表現をするということで
す。感情そのものを俳句に詠(よ)んではいけない。風景によって感情を表(あらわ)す。例(たと)えば、「灯(ともしび)」と言えば、そこに、ただのあかりだけではない温(あたた)かさを感じ、「ふきのとう」と言えば、春の訪(おとず)れを感じるようにです。そして、作句を縁として気づいたことがあります。それは既にどなたかがおっしゃっていることかもしれませんが、私なりの発見です。
すなわち
- 癒(いや)す者は癒される
- 与える者は与えられる
- よろこぶ者はよろこばれる
他にも
- 微笑(ほほえ)む者は微笑まれる
- 心開く者は心開かれる
- 慰(なぐさ)める者は慰(なぐさ)められる
- 助ける者は助けられる
- 寄(よ)り添(そ)う者は寄り添われる
自(みずか)ら行(おこな)う者は、同じくその恩恵を受けるという事実です。
曰(いわ)く、
「如来を信ずる者は如来の御恵みにあずかる」(関本諦承(たいじょう)上人)
よろこべばよろこびごとがよろこんでよろこびあつめよろこびにくる
(善因善果のうた)
南無阿弥陀仏 合掌