月かげ第116号

 

 

「念仏といふは、仏を念ずるなり。仏を念ずるといふは、其仏(そのほとけ)の因縁をしりてその功徳(くどく)を念ずるを、(まこと)の念仏とはいふなり」

 

 

                           西山上人『女院(にょいん)御書(ごしょ)』上巻

 

今年もお盆が近づいて参りました。

 

ご本山と阿弥陀寺を往復の生活も十ヶ月が過ぎ、ようやく生活のリズムがつかめて参りました。

 

先日、松本明慶大佛師のイタリア紀行『旅のチカラ』(NHK)というテレビ番組で、明慶先生が何気ない会話の中で、「私は佛像を彫るためだけに生かされている」と、おっしゃっておられました。このお言葉を聞いた時、私には、「あっ、そうか」と(うなず)くところがありました。(私はどうか・・・)私自身にこのお言葉を置き換えてみますと、「私は、念仏の弘通(ぐづう)、弥陀のご本願を伝えるためだけに生かされている」ということになります。凡夫ながらに弥陀仏のご本願をお取り次ぎさせて頂くためだけに生かされている、と。

 

西山上人は、「其仏の因縁をしりてその功徳を念ずるを、真の念仏とはいふなり」と述べられています。

 

「その仏の因縁」とは、法蔵菩薩が凡夫救済のために四十八願を建て、長い長い年月をかけてご修行し、四十八願成就(じょうじゅ)され、まさに衆生(私)の救済が完了したことを指します。その一事によって、私の唱える一声の念仏で私の救済は完了したのです。他に、法然上人、西山上人のお念仏はありません。それ以外の念仏を法然上人は、「観念のねんにもあらず」と否定されています。

 

「ああ、阿弥陀仏、我を救いたもう。ありがたい、もったいない、南無阿弥陀仏」(安心)これが我が宗のお念仏です。

 

凡夫ながらに南無阿弥陀仏、私が救われたこのお念仏を、お浄土へ還るその時まで、ご縁の赴くままにお伝えさせて頂く。(起行)それが、私がこの世に生かされている理由であると・・・。他にはありません。

 

明慶先生のさりげない一言に、大切なことを気付かせて頂いた一夜でありました。

            南無阿弥陀仏     合掌