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月かげ126号

啓(けい)白文(びゃくもん)

 

光明徧(こうみょうへん)照(じょう) 十方(じっぽう)世界(せかい)

念仏(ねんぶつ)衆生(しゅじょう) 摂取不捨(せっしゅふしゃ)

如来の光明は徧(あまね)く十方世界の念仏の衆生を照らして摂取して捨てたまわず)

                    『仏説観無量寿経

 

衣替えの季節になりました。

さて、去る五月十日・十一日・十七日・十八日の四日間にわたり、広川町井関・圓光寺さまにて厳修(ごんしゅう)されました五重相伝の勧(かん)誡(かい)のご縁に与(あずか)りました。五重相伝は念仏の相伝であり、私たち一人ひとりが念仏衆生となって、幸福な一生を過ごすために必要な法会(ほうえ)です。

では、念仏衆生とはどのような人を指(さ)すのでしょうか。

わが宗においては、「阿弥陀仏、われを摂取したもうと信ずる人を念仏衆生という」と定義されています。阿弥陀さまが、私を今ここで摂(すく)い、一生涯にわたって護り導き、いのち尽きるときに極楽浄土へ迎え取ると信じる人を念仏衆生という、ということです。そして、この信心は縁に随って全ての人々が必ず阿弥陀さまから授(さず)かると示されています。 

では、なぜ念仏を唱えると幸福になれるのでしょうか。それは、お釈迦さまの示された因縁果の法則によって、最高の因と縁がお念仏だからです。すなわち、

「よろこべば よろこびごとがよろこんで よろこびあつめ よろこびにくる」

という歌のように、最高の善因である念仏をよろこぶとき、最高の人生が展開されるということです。

時々、阿弥陀さまは本当にいるのでしょうか、という質問を受けます。ドイツの神学者にして哲学者であるシュライエル・マッハーは、「宗教は体験によってのみ現存しうる」と述べています。すなわち、宗教は体験が証明するものであるという意味です。私の場合、父や師匠の往生に立ち合った体験や日常における阿弥陀さまの導きとしか考えられない体験によって、阿弥陀さまの存在を確信しています。

啓(けい)白文(びゃくもん)は、わが宗におけるお経の中心であり、教えの要(かなめ)です。念仏に出合い、阿弥陀さまに摂取されたよろこびの念(おも)いをもって、お唱えして参りましょう。

 

  南無阿弥陀仏 

     合掌