月かげ132号

申せば生まると信じて

ほれぼれと南無阿弥陀仏

  

 

 

        西山上人(しょうにん)

 

 

十二月になりました。季節は巡り、美しかったご本山の紅葉も間もなく終わりを迎えようとしています。

さて、ご本山では、現在十三名の僧侶が寝食を共にしています。御法主(ほっしゅ)、宗務総長、本山部長、私(教学部長)、随身(ずいしん)職員二名、随身学生(修行僧)七名です。

随身学生は、ご本山に住み込んで、「一、掃除 二、勤行(ごんぎょう) 三、学問 四、始末(しまつ)」を、徹底的に教育されます。そして、僧侶の基本を身につけて、二年ないし一年の修行を終え、下山します。

私の仕事の一つに、彼らに、教学・布教・法式(ほっしき)の基礎を伝えるということがあります。不定期で時々、夕食後一時間余り、彼らと様々なことを学んでいます。

先日、教学の学習会をしている中で、どうしても弥陀(みだ)のご本願を信じることができないという学生がおり、色々と話をしている中で、私自身、一つ気づいたことがありました。それは、「西方(さいほう)阿弥陀(あみだ)」・「西方極楽世界」ということであります。善導大師の『往生(おうじょう)礼讃(らいさん)』に度々出てくるこれらのことばは、私自身ある時期から、当たり前の事実として、「西方に阿弥陀仏あり」・「西方に極楽浄土あり」と理解するようになり、彼岸中日の夕日の沈む彼方(かなた)に、極楽世界が必ずあるとお説教して参りました。

しかし、地球は丸い・・・。西へ西へと進んで行けばまた再び元の場所に戻ってしまう・・・。宇宙の西の果てを目指してロケットに乗って進めば、極楽浄土に辿り着くのか・・・。それはかつて私がお念仏に帰依したころ持っていた素朴な疑問でした。しかし、やはり、西方に極楽はあるのです。この西方とは絶対の西方、私たちの暮らす三次元世界を超えた真西(まにし)、仏の世界における真西なのです。三次元世界から仏の世界へ渡ることを横超(おうちょう)といいます。川をさか上るのではなく、飛び超えてこちらの岸(此(し)岸(がん))から向こう岸(彼岸(ひがん))に渡る。渡ってみれば、やはり、「西方阿弥陀」・「西方極楽世界」であって、極楽は彼岸の中日に夕日の沈む彼方にあるとしか言いようがないのです。

平(ひら)信(しん)じから一旦の否定を経て、絶対の西方極楽浄土へ・・・。    

南無阿弥陀仏     合掌

 

月かげ131号

光台に

見しは見しかは見ざりしを

聞きてぞ見つる白川の関  

 

 

        西山上人(しょうにん)

 

 

本山のもみじも少しずつ色づいてまいりました。十一月十五日から、今年も紅葉期特別入山が始まります。

さて、去る十月十八日、当山のお十夜会に、曾根田(そねだ)・竹園社(ちくえんしゃ)のご住職池﨑歓澄師をお迎えし、お説教を拝聴致しました。池崎師のお話の中で、ご自身のご本山での加行(けぎょう)中、加行も後半にさしかかったある日の阿弥陀堂でのお勤めで、ふと弥陀三尊を仰いだ瞬間、ご自身の思いを超えて、涙が滂沱(ぼうだ)のごとく溢れ出し、不思議なことに、その瞬間以来、弥陀による自己の救済への疑いが消えてしまったとのことでした。

ドイツの神学者、シュライエル・マッハーの言葉に、「宗教は体験によってのみ現存しうる」、すなわち、宗教は体験あってこその宗教である、と。

心に先がけて、身体がまず反応するということは真実であろうと思います。頭で納得するのではなく、身体が先んじて疑いが晴れてゆく・・・。

弥陀の慈悲は、等しく全ての人々に降り注いでいます。

共々に救いの中にある喜びを実感した、今年のお十夜会でありました。

 

生きて身をはちすの上にやどさずば

  念仏もうす甲斐(かい)やなからん

            (西山上人)

 

南無阿弥陀仏     合掌

月かげ130号

あみだ仏(ぶ)

そむる心の色にいでば

秋のこずゑ(え)のたぐひ(い)ならまし  

 

 

        法然上人(しょうにん)

 

秋が少しずつ深まって参りました。

本山のもみじも少しずつ色づいてまいりましたが、例年になく、なら枯(が)れもあり、異常気象の影響が本山にも及んでいます。

さて、世界に目を向けてみますと、未だ各地で紛争が繰り広げられ、宗教的対立を中心として、自国の我欲のため、罪のない多くの人々が巻き添えとなり、命が奪われています。日本はかろうじて平和が保たれていますが、安閑(あんかん)としていて、大丈夫なのかと危機感が募(つの)ります。

さて、冷静に眺めますと、国家間の対立から、身近な人間関係の対立まで、全ての対立は、自我の対立に行き着きます。

我執(がしゅう)を超えるのは宗教であり、また、我執ゆえに宗教的対立は根深いという矛盾があります。そして、全ての宗教が目指す平安な境界(きょうがい)は、実にこの自我の彼方(かなた)にあるものです。

禅に「両忘(りょうぼう)」という言葉がありますが、是と非、善と悪、苦と楽、美と醜、愛と憎など、全ての二元的対立を忘れ去ったところに開かれる世界こそ、みほとけの世界、お浄土であります。

異常気象による木のなら枯れも、様々な災害も、全て自然の摂理によってもたらされるものです。

それら自然災害に対しては、対策を怠らず、人間同士、あらゆる対立を超えて、平和に暮らすことが出来れば・・・。

「地上に毛皮を敷(し)き詰めることは不可能だが、一足の靴を履(は)けば、世界を安全に歩くことが出来る・・・」との仏教のみ教えがありますが、その一足の靴こそが、私にとりましてはお念仏のみ教えです。

念仏で全ての二元対立を超えて、安らかに楽しく謙虚に暮らして参りたいものです。

南無阿弥陀仏 

 合掌

 

月かげ129号

南無(なむ)阿弥陀(あみだ)

 ほとけのみなと思(おも)ひ(い)しに

    唱(とな)ふ(う)る人のすがたなりけり

  

            西山(せいざん)上人(しょうにん)

 

台風に荒れた夏も、少しずつ秋めいて参りました。

私(わたくし)ごとになりますが、去る八月十七日、父の弟の千葉の叔父(おじ)さんが亡くなったという知らせが届きました。たしか、八十五歳であったかと思います。叔父さんは、父と同じく東京生まれで、少年の頃、豆腐屋に修業に入り、一生涯、昔ながらの旨(うま)い豆腐をご夫婦で作って、晩年は店をたたみ、悠々自適(ゆうゆうじてき)の生活であったと聞いております。

叔父さんは、父の兄弟の中でも、ひときわ情の深いお方でありました。祖父母や父が亡くなったとき、祖父母や父の体にすがって、おいおいと声をあげて、泣きじゃくっていたのを覚えています。

スーパーが近くにできて、一時、客が離れたが、昔ながらの豆腐を作り続けていたら、客が戻ってきたと、喜んでいたことが思い出されます。

ひとは一人では生きてはいけません。叔父さんの一生は、旨い豆腐をお客さんに届け続けて、暑い夏には冷ややっこで、寒い冬には湯豆腐で、春や秋には美味しい味噌汁で、豆腐を食べる人々を、ひとときの幸福へと導いていたことだろうと思います。

それが、叔父さんの、衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)の菩薩(ぼさつ)行(ぎょう)ではなかったかと・・・。

今頃はお浄土で、父や両親たちと再会し、永遠のいのちとなって、光明の中で、至福のときを迎えていることと思います。

真実、価値あるものとは何か、それは、世間の地位や名誉や金ではない、まごころと使命をもって、謙虚に、そして、安らかに楽しく人生を全うすることでありましょう。願わくは、みほとけと共に・・・。

                     南無阿弥陀仏  合掌

月かげ128号

大いなるものにいだかれあることを

  けさふく風のすずしさにしる

                   山田無文老師

 

 

八月になりました。今年も、お盆の季節が巡って参りました。当山でも、お盆の準備を少しずつ進めています。

さて、世間の風潮(ふうちょう)では、ご先祖さまの供養やお葬式を簡単に済ますことが増えていますが、残念に思います。両親やご先祖さまへの感謝の思い、人の命が、死んで消えてなくなるのではないという実感があれば、そのようなことはないと思います。

お盆は、あの世とこの世が混(こん)然(ぜん)一体(いったい)となる、一年のうちでも特別な時間です。

子供の頃、私の故郷の新潟県の魚沼地方では、八月十三日の夕暮れ時から、子供たちが提灯(ちょうちん)を持って、各家々から一斉(いっせい)にお墓参りに出かけたものでした。広い墓地にはロウソクの灯(ひ)がともり、子供たちは、お墓のお供え物を頂いて帰ったものでした。墓地全体がたくさんのロウソクの炎にゆらゆら揺れて、幻想的で、少し怖い風景であったことを覚えています。お墓に佇(たたず)んでいると、(死後の世界はきっとある、だからご先祖さまたちを全ての家々の人々がお祀(まつ)りされているのだろうなぁ・・・)と、おぼろげながら感じたものでした。この世とあの世が、表舞台と舞台裏であることが実感されれば、自ずと先祖供養の意味も変わってくると思います。

人の命は大切にしなければならない。この当たり前の真理を忘れたとき、国は戦争へ近づく道を選び、原子力を推進し、子供たちは命を軽んずる道を歩むのだと思います。

お盆は自分の命と他者の命と亡くなった方々の命が通い合う特別な時間です。

   南無阿弥陀仏

                     合掌

月かげ127号

  初めよく

  中よく

  終わりよく

 

 

       『法句(ほっく)経(きょう)』より

 

梅雨時です。

梅雨は、じめじめとして、うっとうしく感じますが、この時季は、紫陽花が咲き、かたつむりが遊び、蛍が飛び交う季節でもあります。かれらにとっては、その一生の中でも、特別な季節です。

さて、『法句経』に、「初めよく 中よく 終わりよく」と、説かれています。

昔、得度の師である長空(ちょうくう)師のおことばを勘違いして、「終わりよければ全てよし、ですね」と、念を押したところ、「初めよく 中よく 終わりよく、です。終わりよければ全てよし、などという薄っぺらいものではない」と、叱られたことを思い出します。

わが宗のみ教えは、安心(あんじん)の上の起(き)行(ぎょう)でありますが、わが身を振り返りますと、ご縁任せとはいうものの、先徳の皆さまのような、衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)の人生とは決して言いきることができないのが正直なところです。

ただ、ご本山に勤めさせて頂くようになって、ご本山で働く職員さんの中に、ご本山に対する極めて深い愛山(あいざん)護法(ごほう)の思いを持って、日々精進しておられる方々がいることを知り、「私もまた」との思いで、過ごさせて頂いております。それもまた、起行でありましょう。

よりよい宗門、よりよい本山、念仏の弘通(ぐづう)を目指して、念仏の日暮らしを続けて参りたいと思います。

   南無阿弥陀仏 

     合掌

 

注・衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)

  (衆生は無辺なれども誓って度せんことを願う)

  衆生は数限りなく存在するが、誓って、全員を救済したいと願う、という意味。

 

月かげ126号

啓(けい)白文(びゃくもん)

 

光明徧(こうみょうへん)照(じょう) 十方(じっぽう)世界(せかい)

念仏(ねんぶつ)衆生(しゅじょう) 摂取不捨(せっしゅふしゃ)

如来の光明は徧(あまね)く十方世界の念仏の衆生を照らして摂取して捨てたまわず)

                    『仏説観無量寿経

 

衣替えの季節になりました。

さて、去る五月十日・十一日・十七日・十八日の四日間にわたり、広川町井関・圓光寺さまにて厳修(ごんしゅう)されました五重相伝の勧(かん)誡(かい)のご縁に与(あずか)りました。五重相伝は念仏の相伝であり、私たち一人ひとりが念仏衆生となって、幸福な一生を過ごすために必要な法会(ほうえ)です。

では、念仏衆生とはどのような人を指(さ)すのでしょうか。

わが宗においては、「阿弥陀仏、われを摂取したもうと信ずる人を念仏衆生という」と定義されています。阿弥陀さまが、私を今ここで摂(すく)い、一生涯にわたって護り導き、いのち尽きるときに極楽浄土へ迎え取ると信じる人を念仏衆生という、ということです。そして、この信心は縁に随って全ての人々が必ず阿弥陀さまから授(さず)かると示されています。 

では、なぜ念仏を唱えると幸福になれるのでしょうか。それは、お釈迦さまの示された因縁果の法則によって、最高の因と縁がお念仏だからです。すなわち、

「よろこべば よろこびごとがよろこんで よろこびあつめ よろこびにくる」

という歌のように、最高の善因である念仏をよろこぶとき、最高の人生が展開されるということです。

時々、阿弥陀さまは本当にいるのでしょうか、という質問を受けます。ドイツの神学者にして哲学者であるシュライエル・マッハーは、「宗教は体験によってのみ現存しうる」と述べています。すなわち、宗教は体験が証明するものであるという意味です。私の場合、父や師匠の往生に立ち合った体験や日常における阿弥陀さまの導きとしか考えられない体験によって、阿弥陀さまの存在を確信しています。

啓(けい)白文(びゃくもん)は、わが宗におけるお経の中心であり、教えの要(かなめ)です。念仏に出合い、阿弥陀さまに摂取されたよろこびの念(おも)いをもって、お唱えして参りましょう。

 

  南無阿弥陀仏 

     合掌