月かげ第164号

 

 一所懸命の人に

   仏さんが観える

 

                                大佛師 松本明慶先生

 

お盆の季節となりました。

本山では、七月末に、中学生研修会と暁天講座が開催されます。

七月二十八日早朝の暁天講座で講師をつとめられた大佛師・松本明慶先生からは、「心の目を開け」、と教えて頂きました。心を開き、心の目を開く、そして、一所懸命ひとつの仕事や使命に打ち込んでいくなかで到達する世界があると、ご教示頂きました。実際に実践されている方の言葉は重く、説得力があります。人生の貴重な時間を無駄に過ごすことはできないなと、改めて思った次第です。

また、同じ二十八日、私自身が中学生研修会の講義をする中で、中学生たちに伝えた、朝の作法について述べてみたいと思います。

朝起きて、顔を洗ったら、阿弥陀さまに向かってお参りします。まず合掌して、南無阿弥陀仏とお唱え下さい。そして、

「みほとけさま、ご先祖さま、日々お護り頂きましてありがとうございます。(御礼)

心より感謝致します。(感謝)

今日も一日よろんで無事に暮らせますように。(歓喜・よろこび)

世界が平和に、皆が幸福でありますよう、私にできるささやかなつとめを果たします。(報恩・使命)  お十念」

暁天講座、中学生研修会を終えて、明慶先生も、中学生たちも、和やかに、にこやかに、ご本山を後にされました。

盛夏に吹く、爽やかな涼風、これもまた念仏の功徳であろうと思った次第です。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第163号

たなばたや 秋をさだむる

夜のはじめ

                松尾芭蕉

 

 

七夕の季節となりました。

七夕は、年に一度、夜空で出合う織姫と彦星に、短冊に願いを託(たく)して笹(ささ)に吊るす、日本古来の伝統行事です。

小学校の低学年の頃、クラス全員で短冊に願いを書いて吊るしたことが思い出されます。子供の頃の願いは、一様に純粋で素直な願いでありました。総じては、自らと周囲の皆さんの幸福を願う内容であったと思います。

では、幸福とは何でしょうか。幸福は人それぞれの価値観によって変わるものだと思います。すなわち、ひとからは逆境(ぎゃっきょう)にあるように見えても自分を幸福だと思っている人は幸福です。逆にひとからみれば何不自由ないようにみえても、自分を不幸だと思っている人もいます。ようするに幸福とは一人ひとりの心の問題であろうと思います。お釈迦さまは「知(ち)足(そく)」というみ教えを示されました。また、お釈迦さまは、私たちにお念仏をお勧めになられました。(釈尊(しゃくそん)出世(しゅっせ)の本懐(ほんかい))

日常生活を、素直に阿弥陀さまと共に暮らす、穏やかな日暮(ひぐ)らしこそが、私たちの幸福だと思います。子供の頃、短冊に素直な願いを託したように、阿弥陀さまに素直な心でお念仏をお唱えしましょう。

当山では三年後に五重相伝を勤めます。ご縁を結ばれることをお勧め致します。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ162号

形見とて何か残さむ春は花

山ほととぎす秋はもみぢ葉

 

                 良寛和尚

 

 

 

梅雨が近づいて参りました。

さて、去る五月二十日の土曜日、総本山光明寺東京別院の第二十四回念仏のつどいに参加させて頂きました。その時の講演で松本明慶大佛師より伺ったお話の中で、印象に残っているお話を少しご紹介したいと思います。

タイトルは『仏心大器』でした。

一つ目のお話は、仕事に対して心が澄んでいるかどうかが大切である、心技体が無色透明でなければいけない、ということです。

そして、もう一つのお話は、先祖の最終ランナーが私であるということです。先祖の最終ランナーである私が、墓じまいをしたり、仏壇祀(まつ)りをやめるとき、先祖との絆が断ち切られてしまうということです。先祖は私を見ている、そして、護って下さっている。その先祖との絆を自ら断ち切るということは、自分のいのちの根源との断絶を意味する、ということでした。

先祖への供養を捨て、自らご先祖さまからの御加護を切り捨ててしまうとき、幸福な人生を全うできるとも思われません。

お釈迦さまのお示しの如く、全ては因縁果の法則の中にあります。

透明な心で仕事をし、ひとに接し、さらにご先祖さまの最終ランナーである私を自覚して、みほとけとご先祖さまに感謝の真(まこと)を捧げるとき、明るい人生が開かれてゆくのだと思われます。

今年の七月二十八日、本山の暁天講座で、明慶先生がお話されます。御聴聞をお勧め致します。

          南無阿弥陀仏  合掌

月かげ161号

和を以て貴しとなす

 

             聖徳太子十七条憲法より)

 

新緑の美しい季節となりました。

本山に隣接して京都西山短期大学があります。毎年、百名程度の新入生が入学しますが、半分は中国からの留学生です。私は役職上、京都西山学園の理事長となっていますので、入学式では祝辞を述べます。

今年の入学式で、檀上から新入生たちを眺めたとき、中国人留学生たちのこわばった表情が印象的でした。そこで、私は一般的な挨拶をした後、中国人留学生たちに向かって片言の中国語で「ニィ、シェンティハオマ?」と問いかけました。「お元気ですか?」という意味です。瞬間、彼らは背筋を伸ばし、花が咲いたかのように一様に、にっこり微笑みました。

この時、私は思いました。本心で向かえば必ず心は通じるということです。これは僧侶となって私が学んだことの一つです。大体のことは本心より語り合えば解決したり通じてゆきます。

西山上人は、白木(しらき)念仏(ねんぶつ)ということをおっしゃられました。この身このままの心で素直に唱えるお念仏を白木念仏といいます。

素直な心、本心で向かえば、国籍を超えて心が通じ合うということを学ばせていただいた瞬間でした。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第160号

願わくは 花の下にて春死なん

そのきさらぎの 望月(もちづき)のころ

 

 

西行(さいぎょう)法師

 

四月になりました。

桜を始め、野山に花が咲いています。花は、ただそこに咲いているだけで人の心を慰(なぐさ)めてくれます。

さて、私が俳句を作るようになって丸二年が過ぎました。相変わらず才能は開花しませんが、作句についていくつか教えて頂くなかで、一つ、「あっ」と頷(うなず)いたことがあります。

それは、俳句は風景をそのまま句に写すことによって感情表現をするということで

す。感情そのものを俳句に詠(よ)んではいけない。風景によって感情を表(あらわ)す。例(たと)えば、「灯(ともしび)」と言えば、そこに、ただのあかりだけではない温(あたた)かさを感じ、「ふきのとう」と言えば、春の訪(おとず)れを感じるようにです。そして、作句を縁として気づいたことがあります。それは既にどなたかがおっしゃっていることかもしれませんが、私なりの発見です。

すなわち

  • 癒(いや)す者は癒される
  • 与える者は与えられる
  • よろこぶ者はよろこばれる

他にも

  • 微笑(ほほえ)む者は微笑まれる
  • 心開く者は心開かれる
  • 慰(なぐさ)める者は慰(なぐさ)められる
  • 助ける者は助けられる
  • 寄(よ)り添(そ)う者は寄り添われる  

自(みずか)ら行(おこな)う者は、同じくその恩恵を受けるという事実です。

曰(いわ)く、

如来を信ずる者は如来の御恵みにあずかる」(関本諦承(たいじょう)上人)

よろこべばよろこびごとがよろこんでよろこびあつめよろこびにくる

(善因善果のうた)

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第159号

阿弥陀仏、われを摂取したもうと

信ずるひとを念仏衆生という。

   

 

(範空上人)

 

春が近づいて参りました。

梅が咲き、水仙が咲き、木蓮の蕾がふくらんでいます。

私は今、本山で念仏の日暮らしを過ごしています。具体的に言いますと、堀本御法主(ごほっしゅ)と親しくさせて頂くなかで、毎日阿弥陀仏のお慈悲に感謝して暮らしているということです。それは、当然私ひとりにとどまることではありません。堀本御法主に接する多くの方々が、念仏のよろこびに浴(よく)し、阿弥陀仏に感謝しています。

善(ぜん)知識(ちしき)ということの大切さが身にしみます。そして今、自分が堀本御法主のおそば近くに侍(はべ)らせて頂けていることの幸いをしみじみと感じるのです。

本山での暮らしには、なかなか厳しいものがあります。時間に縛られ、自由は少ないです。難しい問題にも対応しなければなりません。

しかし、「学仏(がくぶつ)大悲(だいひ)心(しん)」、「慈悲(じひ)無敵(むてき)」、「同体(どうたいの)大悲(だいひ)」、「同事(どうじ)」の心で、ことに当たりますと、大概のことは解決致します。

しんどいことも多いですが、逆に、面白いなあ、ありがたいなあと思うことも多いです。

どのような宿縁(しゅくえん)のおかげさまか、堀本御法主にお仕(つか)えできる幸福をかみしめている今日この頃です。  

南無阿弥陀仏    合掌

月かげ第157号

正月の子供に成(なり)て見(み)たき哉(かな)

 

 

           小林一茶

 

 

 明けましておめでとうございます。

年頭にあたり、本年の皆みなさまのご健勝をお念じ申し上げます。

さて、年齢を重ねるごとに、新年を迎える心持ちも少しずつ変わって参りました。子供の頃は、厳かな気持ちをもちつつも、ただ嬉しく新年を迎えていたように思います。今は、世界と我が身の平安な日常が末永く続くようにという思いが強いように感じます。

昨年は、十月一日に宗務総長に就任し、また、年末には狭心症で入院するという変化の多い一年でした。

健康面も、いよいよ真剣に取り組まねばならない時期が来たことを痛感しています。

ご本山では、十二月十四日に、堀本御前さまの晋山式を厳修致しました。私は、四年間の任期を堀本御前さまにお仕(つか)えして、本願念仏の弘(ぐ)通(づう)、そして、浄土門根元地たるご本山と西山浄土宗の弥栄(いやさか)に寄与したいと考えています。

また、平成三十二年に当山の五重相伝を控え、少しずつ準備を進めて参ります。

昨年末の御前さまの晋山式、そして、自らの狭心症による入院を通じて感じたことは、弥陀の御加護の一言に尽きます。

晋山式の前日、十三日より当日十四日の午前三時までは、強い雨が降っていました。十四日の朝には雨は上がって青空となっておりましたが、まだ黒い雲がかかっていました。午前十時、開門式を終えた御前さまの行列が表参道の女人坂を上がって行く途中、ふと空を見上げますと、黒い雲が左右に分かれ、御本廟の上まで深く澄んだ青空が広がっておりました。このとき私は、仏天(ぶってん)の御加護ということを深く肝に銘じました。

また、十二月二十一日から二十三日にかけて、狭心症長岡京市済生会京都府病院に入院しましたが、このときには、いよいよ更に身を慎むべき時節が巡って来たことを強く感じました。

全ては弥陀のおはからい、御加護であることが身に染みます。

本年も皆さまと共に、お念仏をよろこんで参りたいと思います。

南無阿弥陀仏     合掌