月かげ167号

山賤(やまがつ)が白木(しらき)の合(ごう)子(し)そのままに

   漆(うるし)つけねばはげ色(いろ)もなし

 

 

西山上人

 

紅葉の季節となりました。

さて、去る十月二十二日の夜から二十三日の朝方にかけて、台風二十一号が来襲しました。

二十二日、梶取総持寺では、毎年恒例の「念仏と講演の集い」が予定されていましたが、悪天候による被害を予想して、参加者の安全を考慮し中止となりました。阿彌陀寺でも、法事が二軒入っていましたが、一軒は延期、もう一軒はどうしてもこの日にということで、本堂だけのお勤めにして、後日、晴れてからお墓に参りました。

ご本山では、樫(かし)の古木が根本から折れて消防道をふさぎ、柏(びゃく)槇(しん)の太い枝が折れるなど、表参道も紅葉参道も、折れた枝と風に飛ばされた青葉で、緑のじゅうたんを敷き詰めたようなありさまでした。

二十六日に西山忌も控えていましたので、清掃作業が急がれましたが、内局・職員・随身学生一同、協力して無事に終わりました。紀ノ川も有田川もやはり被害が出て、南海線も橋梁(きょうりょう)が崩れ、運休となりました。

自然の猛威はどうすることも出来ません。しかし、嵐が去った後の人々の協力、助け合いには心動かされます。道路に飛んできた木の枝一本だけでも、片付けると皆のためになる。目に見えないお蔭さまの力こそ、私たちを支え、そして全ての人々の幸福に通じていると思うこの頃です。


南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第166号

仏心とは

大慈悲これなり

 

 

   仏説観無量寿経

 

すっかり秋ですね。過ごしやすい季節となりました。

さて、去る九月三十日、京都西山高等学校通信単位制課程の後期卒業式が行われ、十四名の生徒が卒業し、理事長として祝辞を述べさせて頂きました。

京都西山高等学校は、総本山光明寺第六十九世法主・関本諦承(たいじょう)上人によって九十年前に設立された宗門校です。

その建学の精神は、「学仏(がくぶつ)大悲(だいひ)心(しん)」(仏の大悲心を学ぶ)です。さらに、み仏の慈悲(じひ)と智慧(ちえ)を学ぶ、とあります。元来、慈悲も智慧もみ仏より授かるものです。実際には、慈悲と智慧といってもピンとこないかもしれません。

そこで、まず智慧は、正(しょう)見(けん)に通ずるということで、あらゆる角度から物事を眺めることが大切である、とお話し致しました。たとえば、ひとつの出来事を眺めたとき、あらゆる角度から眺めて、初めて真実に近づく、といったようにです。一面から眺めただけでは真実は見えません。

そして、慈悲については、人の悲しみに本気で寄り添うことが大切である、傍観者としてではなく、と伝えさせて頂きました。

去る九月十一日、師匠橋本随暢上人の七回忌が厳修されました。

懐かしさと共に、師匠の偉大さ、布教伝道の大切さを、改めてしみじみと感じる今日この頃です。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第165号

浄土門は愚痴(ぐち)に還(かえ)りて

極楽に生ず

         法然上人

 

 

九月になりました。

夏の終わりは寂しく感じます。盛んであったものが、色褪(いろあ)せてゆくからでしょうか。 

さて、私たちは、氾濫(はんらん)する情報に麻痺(まひ)してしまっていますが、世界を駆け巡るニュースは、そら恐ろしいニュースばかりです。

人間の愚かな行為は、自然界の動物たちの弱肉強食の世界と比べるまでもなく、罪深いと言わざるを得ません。

私たち念仏者は、「ただ争いを捨てて念仏に帰せよ」という、宗祖法然上人のみ教えを素直に頂くほかはありません。

本山での生活は静かなものです。朝五時半、ご法主猊下(ほっしゅげいか)と勤める晨(じん)朝(じょう)勤行(ごんぎょう)で、ご法主自ら、「天下和順之(てんげわじゅんの)文(もん)」をお唱えになります。阿弥陀仏四十八願を説く『仏説(ぶっせつ)無量寿経(むりょうじゅきょう)』の一節です。

 

天下(てんげ)和順(わじゅん) 日月(にちがつ)清明(しょうみょう) 風雨(ふうう)以時(いじ) 災厲(さいれい)不起(ふき) 国(こく)豊(ぶ)民安(みんあん) 兵戈(ひょうが)無用(むゆう) 崇(す)徳(とく)興(こう)仁(にん) 務修禮(むしゅらい)譲(じょう)

 

 平和を願う人間と、自我のために勢力拡大をはかる人間の分かれ道は何処にあるのでしょうか。

 私たちは、念仏こそが真の平和と繁栄に至る道と理解して、阿弥陀仏と二人連れの人生を歩んで参りましょう。

          南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第164号

 

 一所懸命の人に

   仏さんが観える

 

                                大佛師 松本明慶先生

 

お盆の季節となりました。

本山では、七月末に、中学生研修会と暁天講座が開催されます。

七月二十八日早朝の暁天講座で講師をつとめられた大佛師・松本明慶先生からは、「心の目を開け」、と教えて頂きました。心を開き、心の目を開く、そして、一所懸命ひとつの仕事や使命に打ち込んでいくなかで到達する世界があると、ご教示頂きました。実際に実践されている方の言葉は重く、説得力があります。人生の貴重な時間を無駄に過ごすことはできないなと、改めて思った次第です。

また、同じ二十八日、私自身が中学生研修会の講義をする中で、中学生たちに伝えた、朝の作法について述べてみたいと思います。

朝起きて、顔を洗ったら、阿弥陀さまに向かってお参りします。まず合掌して、南無阿弥陀仏とお唱え下さい。そして、

「みほとけさま、ご先祖さま、日々お護り頂きましてありがとうございます。(御礼)

心より感謝致します。(感謝)

今日も一日よろんで無事に暮らせますように。(歓喜・よろこび)

世界が平和に、皆が幸福でありますよう、私にできるささやかなつとめを果たします。(報恩・使命)  お十念」

暁天講座、中学生研修会を終えて、明慶先生も、中学生たちも、和やかに、にこやかに、ご本山を後にされました。

盛夏に吹く、爽やかな涼風、これもまた念仏の功徳であろうと思った次第です。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第163号

たなばたや 秋をさだむる

夜のはじめ

                松尾芭蕉

 

 

七夕の季節となりました。

七夕は、年に一度、夜空で出合う織姫と彦星に、短冊に願いを託(たく)して笹(ささ)に吊るす、日本古来の伝統行事です。

小学校の低学年の頃、クラス全員で短冊に願いを書いて吊るしたことが思い出されます。子供の頃の願いは、一様に純粋で素直な願いでありました。総じては、自らと周囲の皆さんの幸福を願う内容であったと思います。

では、幸福とは何でしょうか。幸福は人それぞれの価値観によって変わるものだと思います。すなわち、ひとからは逆境(ぎゃっきょう)にあるように見えても自分を幸福だと思っている人は幸福です。逆にひとからみれば何不自由ないようにみえても、自分を不幸だと思っている人もいます。ようするに幸福とは一人ひとりの心の問題であろうと思います。お釈迦さまは「知(ち)足(そく)」というみ教えを示されました。また、お釈迦さまは、私たちにお念仏をお勧めになられました。(釈尊(しゃくそん)出世(しゅっせ)の本懐(ほんかい))

日常生活を、素直に阿弥陀さまと共に暮らす、穏やかな日暮(ひぐ)らしこそが、私たちの幸福だと思います。子供の頃、短冊に素直な願いを託したように、阿弥陀さまに素直な心でお念仏をお唱えしましょう。

当山では三年後に五重相伝を勤めます。ご縁を結ばれることをお勧め致します。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ162号

形見とて何か残さむ春は花

山ほととぎす秋はもみぢ葉

 

                 良寛和尚

 

 

 

梅雨が近づいて参りました。

さて、去る五月二十日の土曜日、総本山光明寺東京別院の第二十四回念仏のつどいに参加させて頂きました。その時の講演で松本明慶大佛師より伺ったお話の中で、印象に残っているお話を少しご紹介したいと思います。

タイトルは『仏心大器』でした。

一つ目のお話は、仕事に対して心が澄んでいるかどうかが大切である、心技体が無色透明でなければいけない、ということです。

そして、もう一つのお話は、先祖の最終ランナーが私であるということです。先祖の最終ランナーである私が、墓じまいをしたり、仏壇祀(まつ)りをやめるとき、先祖との絆が断ち切られてしまうということです。先祖は私を見ている、そして、護って下さっている。その先祖との絆を自ら断ち切るということは、自分のいのちの根源との断絶を意味する、ということでした。

先祖への供養を捨て、自らご先祖さまからの御加護を切り捨ててしまうとき、幸福な人生を全うできるとも思われません。

お釈迦さまのお示しの如く、全ては因縁果の法則の中にあります。

透明な心で仕事をし、ひとに接し、さらにご先祖さまの最終ランナーである私を自覚して、みほとけとご先祖さまに感謝の真(まこと)を捧げるとき、明るい人生が開かれてゆくのだと思われます。

今年の七月二十八日、本山の暁天講座で、明慶先生がお話されます。御聴聞をお勧め致します。

          南無阿弥陀仏  合掌

月かげ161号

和を以て貴しとなす

 

             聖徳太子十七条憲法より)

 

新緑の美しい季節となりました。

本山に隣接して京都西山短期大学があります。毎年、百名程度の新入生が入学しますが、半分は中国からの留学生です。私は役職上、京都西山学園の理事長となっていますので、入学式では祝辞を述べます。

今年の入学式で、檀上から新入生たちを眺めたとき、中国人留学生たちのこわばった表情が印象的でした。そこで、私は一般的な挨拶をした後、中国人留学生たちに向かって片言の中国語で「ニィ、シェンティハオマ?」と問いかけました。「お元気ですか?」という意味です。瞬間、彼らは背筋を伸ばし、花が咲いたかのように一様に、にっこり微笑みました。

この時、私は思いました。本心で向かえば必ず心は通じるということです。これは僧侶となって私が学んだことの一つです。大体のことは本心より語り合えば解決したり通じてゆきます。

西山上人は、白木(しらき)念仏(ねんぶつ)ということをおっしゃられました。この身このままの心で素直に唱えるお念仏を白木念仏といいます。

素直な心、本心で向かえば、国籍を超えて心が通じ合うということを学ばせていただいた瞬間でした。

南無阿弥陀仏  合掌