月かげ139号

真理(しんり)は一つ、

聖者たちはそれをさまざまの名で呼ぶ

 

 

 リグ・ヴェーダ

 

去る六月十五日の朝、旧友の、シンガポール、ラーマクリシュナ・ミッションの副院長、スワーミー・サッティヤローカーナンダ師が、光明寺を訪れました。ラーマクリシュナ・ミッションは、世界各地に支部を置く、インドで最大にして、最も権威のあるヒンドゥー教の宗教団体です。

師は、九州の西山浄土宗寺院の出身であり、西山(にしやま)哲(てっ)昭(しょう)師(元宗務総長)のいとこにあたりますが、若い頃から真理(しんり)を求める思い深く、ついに一九七六年、インドのラーマクリシュナ教団入門、長年の修行を経て、現在、シンガポール僧院の副院長として、霊性の奉仕活動を続けておられます。

ここ数年、六月にほぼ一カ月、日本に滞在して講演等の活動をされており、今回の訪問となりました。

光明寺では、まず御影堂(みえどう)と阿弥陀堂で、しばらくお祈りを捧げた後、日下(くさか)俊(しゅん)精(せい)宗務総長と、インド、シンガポール、日本の、幼児教育や福祉事情、日本仏教の現状と展望などについて歓談され、和(なご)やかなひとときを過ごされ、さわやかな印象を残し、来年の再会を約束して、本山を後にされました。

普遍(ふへん)宗教の真理は一つ・・・。

私たちは、阿弥陀仏に帰依し、極楽世界(真理の世界)に至るのです。

南無阿弥陀仏    合掌

月かげ138号

つゆの身は

ここかしこにてきゑ(え)ぬとも

こころはおなじはなのうてなぞ

 

 

 法然上人

 

今年は、高野山開創千二百年ということで、全国から大勢の方々が高野山にご参詣されました。四月二日の初日には、白鵬日馬富士、両横綱の土俵入り、五月二十一日の結願法会には、秋篠宮ご夫妻がご来山されました。

当山では随仁が、ゴールデンウイークに、和歌山市新内・圓満寺さまの五重相伝会に随喜致しました。二十四日には下津の輪番御忌が、中・来迎院さまで厳修され、総代さんと随喜させて頂きました。三十一日には、町内一斉清掃も終わり、六月を迎えました。

五月中、新潟にも、父の十七回忌で久しぶりに帰郷致しました。父が退職後に建てた家は三十数年経ち、甥や姪たちも成長し、時の流れの早さに驚くばかりです。「あっと言う間の人生だ」と言っていた師匠もお浄土へ帰り、私自身、いつの間にか、初めて師匠に出会った頃の歳になっています。

従兄が、「知らなかった身内の昔ばなしや、色々な話ができて法事はいいね。山伏だったご先祖さんが紀州に縁があり、今、あなたが紀州のひとと結婚して紀州のお寺で住職をしているのは不可思議な因縁ですね」と話していましたが、私もそう思います。子供の頃から三十歳前まで、まさか、和歌山に住むとは、まして住職をするとは、想像もできませんでした。

人間は、縁のはからいによって人生が成り立っています。そして、細かい網の目のように複雑な縁の繋がりと調和が、お釈迦さまのおさとりになられた縁起の理法です。それを、時間の流れの中に置き換えると、因縁果の法則になります。そして、最高の縁こそは、本願念仏との出合いであります。   

衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)

南無阿弥陀仏    合掌

月かげ137号

根ほど葉広がる

         (ことわざより)

 

青葉の美しい季節となりました。

五月の連休は例年、下津上組の施餓鬼会が厳修されます。午後の法要なので、午前中に法事をして、出かけます。四日は、代務住職をしている梅田・地蔵寺の施餓鬼会です。

地蔵寺はわずか檀家十四軒の寺ですが、一ヶ寺として運営されています。寺のご本尊は地蔵菩薩で、前立(まえだち)本尊は阿弥陀如来です。

地蔵菩薩は、大地のほとけで、大地が全てを受け止めるように私たちを温かく護って下さるみほとけです。六地蔵といわれるように、上は天界から下は地獄まで六道を、私たちに寄り添って救って下さいます。

地蔵寺の正式な名称は、子安山(しあんざん)地蔵寺です。室町時代後期、応仁の乱により諸国が乱れる中、紀州下津(加茂郷)も例外ではなく、戦乱に巻き込まれ、あるいは飢餓により、多くの子供たちが亡くなったということです。この時にあたり、法入(ほうにゅう)大徳(だいとく)が、(亡くなった幼子たちのみた(・・)ま(・)を救いたい)という一心で、地蔵菩薩立像を本尊として、本堂を建立されたことが地蔵寺の開創であると伝えられています。

さて、当山にも、本堂に一体のお地蔵さま、地蔵堂にきしねのお地蔵さま、境内に二体のお地蔵さま、墓地に、八体のお地蔵さま、境外に、峠のお地蔵さま方、脇之浜のお地蔵さま、有縁のお地蔵さまとして四十八所神社のお地蔵さま方等、実に多くのお地蔵さま方がお祀りされ、私たちを護って下さっています。

大地は一切を浄化し、一切を育んでいます。大地に感謝を捧げ、今年も豊年万作を念じたいと思います。南無阿弥陀仏 合掌

月かげ136号

山の三角

弥陀の三尊

松吹く風も聖(しょう)衆(じゅ)来迎(らいこう)

 

 

西山上人

 

桜の季節になりました。

四月八日は花まつりです。お釈迦さまのお誕生日といわれています。お釈迦さまは、お生まれになって、七歩歩(あゆ)まれ、右手で天空、左手で大地を指さされ、「天上(てんじょう)天下(てんげ)唯我独尊(ゆいがどくそん)」とおっしゃられたと伝えられています。その時、甘露(かんろ)の雨が降り注(そそ)ぎ、それが誕生仏に甘茶を注ぐ由来となったと伝えられています。

阿弥陀寺でも毎年四月八日には、花(はな)御堂(みどう)に誕生仏をお祀りし、甘茶の供養をさせて頂いております。

「子供の頃に飲んだ甘茶が懐かしい・・・。たまたま通りかかったのですが、甘茶を頂いてもいいですか」と見ず知らずのひとが訪ねて来られることもあります。子供の頃に仏教に触れることはとても大切なことです。小さい時は見るもの聞くもの全てが新鮮です。子供の頃の記憶が何十年も経て、再び仏法へ導くということがあると思います。

私たちを救うと誓ってくださった法蔵菩薩阿弥陀さまになられた、その真実のみ教えを説かれたお釈迦さまの誕生仏に甘茶を注ぎ、素直に合掌することは、私たちの念仏信仰の素朴な原点に通じるように思います。 

遇(あ)い難(がた)き仏法に出合えたことを素直に喜びたいと思います。

誕生仏に甘茶を注ぐ時、私はいつもささやかな感動を覚えます。

お釈迦さまがこの世にお出ましになり、仏法を伝えられたことにより、私たちは救われました。

皆さま、四月八日には阿弥陀寺に参って甘茶を注いでみませんか。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ135号

  夕日

親を思わば 夕日を拝め

親は 夕日の真ん中に

西の空見て 南無阿弥陀仏

弥陀は 夕日のその先に 

           玉虫

        小説『親鸞』(五木寛之著)より

 

紀州下津浦、ひなびた小さな港町にある古いお寺。そこは、いにしえよりの念仏者のふるさと。千年の昔より念仏の声が響き、八百年前に海路より法然上人の本願念仏が伝わる。六百年前には明秀上人が訪れ、爾来(じらい)、念仏の声絶ゆることなし。現世極楽の聖地。※住職の寺報「月かげ」をご覧下さい。」

 

 この度、当山のホームページを作成致しました。総本山光明寺のホームページのリンクからもご覧いただけます。上記の内容で紹介文を書かせて頂きました。遠方にお住まいのご子息さんや、地区内、地区外の檀家さん方に、阿彌陀寺を身近に感じて頂ければと思います。

 さて先日、テレビで心療内科医の梅原純子先生が、「レモンを包丁で半分に切って、そのレモンを自分の口に絞ると思って下さい。自然とつばが出るでしょう。つまり思うだけで身体が反応する。これは心と身体が繋がっているということです」と話されていました。

 病(やまい)は気からとよく言われますが、心が健康ということは大切なことです。身体を患っても、心が元気な方は前向きな人生を歩まれるでしょう。しかし、身体が健康でも心が沈んでいる方は、本当の幸福とはいえません。まずは、日々、明るい気持ちで生活することが元気の源であるということだと思います。

 心と身体が調和し、信仰ある人生が理想です。そして、その信仰とは、決して他の信仰を認めない原理主義ではありません。

 法然上人は、念仏信仰以外の信仰を否定されることはありませんでした。

 愚鈍(ぐどん)の身にふさわしい信仰は本願念仏であると戴いて、智者のふるまいをせず、ただ自らお念仏を称え、多くの方々にお念仏を勧められました。

 今、日本の社会が危うい・・・。信仰心がすたれ、残酷な事件があとを絶ちません。

 心の健康と健全な信仰生活が、真の幸福な人生を開き、総じては豊かな社会をつくってゆくのだと思います。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ134号

生きて身を はちすの上に 

 宿さずば 念仏申す

   甲斐やなからん

 

          西山上人

 

 立春とはいえ、まだまだ寒い日が続いておりますが、梅の蕾がふくらみ始め、春は確実にそこまで来ています。

 今朝、イスラム国に拉致されていた後藤健二さんが殺されたと報道されました。イスラム過激派のテロも、中東世界の遠い国の出来事では片付けられない身近なこととなりました。

 インドの昔話にこんな話があります。全ての存在が神の現(あらわ)れだと聖者から聞いた少年が、象使いの「逃げろ」という言葉に耳を貸さず、暴れ象に向かって挨拶したところ、鼻でつかまれ投げ捨てられました。憐(あわ)れな少年は気絶し、傷だらけで地に横たわりました。少年は「全ての生き物が神の現れだと聖者がおっしゃったから、私は象神を見て動こうとしなかったのです」と。これを聞いて聖者は言いました。「我が息子よ、来たのは象神であることは本当だ。しかし、象使いが、お前に逃げよと警告をしなかったか。神が一切のものの中に現れていらっしゃることは事実だ。しかし、もし神が象として現れておいでなら、それと同様に、いや、もっとはっきりと、象使いの中にも現われていらっしゃるのだ。なぜお前は、象使い神の警告の声に耳を貸さなかったのか」と。

 お釈迦さまは、「正(しょう)見(けん)」という教えを説かれています。物事は、一面からだけ見ていては正しくは見えない。あらゆる角度から眺めたとき、もっとも正しい姿が見えると・・・。

 全ての宗教や思想には、それを信奉(しんぽう)する人たちから見れば、正しい一面があると思います。しかし、あらゆる角度から眺めたとき、それが本当に正しいかどうか、はっきりすると思います。

 私たちは、お念仏にご縁を頂きました。全ての人々が平等に救われ、一切の争いを超えた万機普益(ばんきふやく)のみ教えに出合えた幸いをよろこびつつ、世界に真の平和が訪れることを、心より願いたいと思います。

                南無阿弥陀仏  合掌

月かげ133号

除夜の鐘なりしづまりぬ。

かそかなるそよぎをおぼゆ。

かど松のうれに

 

 

釈迢空 

 

新年おめでとうございます。

例年、除夜の鐘を撞(つ)いている間に新年を迎えます。

「除夜の鐘を撞き終わった頃、門松(かどまつ)をかすかに揺らして、新年の神さまが訪れたようだ」という釈迢(しゃくちょう)空(くう)の歌は、日本人の心を表していると思います。

正月の神さまは、そのように門松や〆(しめ)縄(なわ)を依(よ)り代(しろ)として、そっと私たちの家に来て下さるのです。神さまを迎えるために、年末は大掃除をし、正月の飾りを調(ととの)え、餅などのお供えものをします。正月は、神仏とご先祖さまに感謝を捧げ、心新たに一年の弥栄(いやさか)を願うのです。

お正月は寝て過ごすという方もありますが、やはりそれではもったいないように思います。日本には、折々、節目節目の季節の行事がありますが、お正月はその中でも特別なものです。

一年の計は元旦にあり。

今年こそ、という思いを持って、心新たに今年の計画を立ててみようと思います。

   南無阿弥陀仏

     合掌