月かげ第171号

夏になると 冬がよいといい

冬になると 夏がよいという

狭い家に住めば 広い家に住む人が

羨ましいといい 広い家に住めば

こじんまりした狭い家がよいという

独身の頃には 早く結婚したいといい

結婚すると矢張り独身時代が気楽だっ

たという

それじゃどこにも幸福はあるまい

汝は自分勝手に

不幸を作っているのだよ(『日々の糧』より)

梅の花の季節が過ぎれば、あっという間にお彼岸を迎えます。

今年の冬は例年より雪が降り、高速道路や線路の積雪で大きな被害がありました。自然災害の中で、人間の決めたマニュアルが、かえって人を混乱させるような場面もありました。どんな災害があろうとも、そして不意な不幸におそわれることがあろうとも、落ち着いた行動を心がけたいものです。

人は苦しい時に、その人の本性や信仰心が表に出て参ります。どのような場面でも、みほとけに感謝を忘れず、みほとけを念じていると、不思議と助けられるものです。

さて、十年ひと昔という言葉がありますが、先日、知人に「今は三年ひと昔ですよ」と聞きました。医療や情報ネットワークなど、あらゆることで、時代は慌ただしく変化しています。しかし、私たちの信じる本願念仏のみ教えは、法然上人以来、八百五十年、変わらず私たちを導いて下さっています。

阿弥陀さまに護られて、私たちはどんな時でも強く生き抜く力を頂けるのです。お釈迦さまのみ教えに耳を傾け、法然上人のおことばを信じ、お念仏の生活をよろこぶことが、最善の幸福への近道だと思います。     

           南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第170号

見知らぬ人でもいい

雨にぬれていたら

走って行って傘に入れておやり

小さなことでいいのです

あなたの胸のともしびを

相手の人にうつしておやり

坂村真民

 

寒い日が続きます。

去る一月十四日の日曜日、当山五重相伝厳修の看板を本堂前に設置致しました。当山では二〇二〇年十一月二十日(金)~二十四日(火)まで五日間の予定で、平成十七年三月以来、十五年ぶりの五重相伝を厳修致します。

五重相伝は念仏の相伝です。お一人おひとりが念仏衆生になって頂く。「念仏衆生とは、阿弥陀仏われを摂取(せっしゅ)したもうと信ずる人」のことです。すなわち、「阿弥陀さま、お助け頂きましてありがとうございます」という心持ちになって頂くということです。

「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」(山本有三『路傍(ろぼう)の石』より)

「ほんとうに生かす」とは、どういうことでしょうか。

それは、信仰・真理に目覚めた人、真の人間になることです。

五重相伝は、わが西山浄土宗における、もっとも厳粛(げんしゅく)かつ意義深い、真の人間に目覚めしめるための伝統的な大法会です。

受け難(がた)き人身を受け、遇(あ)い難き仏法(本願)に逢い、発(おこ)し難き道心をおこして、お念仏をよろこび感謝して、使命に生きる人間となるのです。

一人でも多くの皆さまが、この度の五重相伝に結縁(けちえん)されることを、心よりお待ち申し上げます。

            南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第169号

およそ聖(しょう)道門(どうもん)は、智慧(ちえ)を極めて 生死(しょうじ)を離れ、浄土門は愚痴(ぐち)に還(かえ)りて極楽に生(しょう)ず

 

 

法然上人

 

新年おめでとうございます。

本年が皆々さまにとりまして、素晴らしき一年となりますよう、心よりお念じ申し上げます。

昨年は、十一月末より、玄関、厨(くりや)の壁塗(かべぬ)り、土間の三和土(たたき)、鐘楼の修復工事を行いましたが、正月までに完成することができました。阿彌陀寺の建物は全て古く、不便ではありますが、部分部分に歴史と味わいがあります。同じように下津浦は、地域全体が、歴史千年の念仏の故郷(ふるさと)です。下津浦が、末永く穏やかに栄えゆくことを念じています。

さて、念仏の功徳(くどく)は、滅罪(めつざい)と往生(おうじょう)と御加護(ごかご)に極まります。

あらゆる道徳的宗教的罪(つみ)が念仏によって浄(きよ)まり、生きている今も、そして、この世との縁の尽きた後(のち)も、往生人として永遠のいのちに生かされてゆくわが身であります。この世にある間は、お念仏によって苦しみは半減し、喜びは、いく倍にもなって、護(まも)り通(どお)しに護られる御加護に与(あずか)る私たちです。

当山では、二年後、二〇二〇年十一月二十日(金)から十一月二十四日(火)まで、五日間の予定で五重相伝を厳修致します。五重相伝は、念仏の相伝です。何度受けてもありがたいものです。どうぞこの機会に、おひとりでも多くの皆さまが、結縁(けちえん)されますことを、年頭にあたり深く祈念(きねん)致します。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第168号

煩悩にまどい迷える命なれど

久遠(くおん)の聲(こえ)にみちびかれつつゆく

 

                  菅田祐凖師

 

師走となりました。

いよいよ来年は平成三十年です。年末になると毎年、慌(あわ)ただしく大掃除に明け暮れますが、あちらもこちらもと思っている間に年が明けてしまいます。今年こそは完璧にしたいと思います。風呂、食堂、トイレ、玄関、居間、仏間、庭・・・。数え上げればたくさんの場所が・・・。

先日、雨が続いた日の午後、突然、ドサッという大きな音がしました。見れば、竈(かまど)の上の壁が中の竹ごと一緒に土間に落ちていました。大変な土ぼこりで、前が見えないくらいでした。幸い、誰もそこにはいなかったので、助かりました。コンテナ二箱に土と竹を片付けました。

翌日、友人のお寺の奥さんに話したご縁で、重要文化財を修復している方に直して頂けることになりました。壁だけでなく、土間も修復することになり、来年のお正月は綺麗な玄関で新年を迎えられそうです。

明治の初めから護られてきた家に住めることは今の時代には珍しいことかもしれません。古い家に住んで、不便もありますが、今は少しずつ直しながら、綺麗になることが喜びでもあります。

「掃除は神事(かみごと)」と言われます。お仏壇や玄関をまずは綺麗にして、来年も歳(とし)神(がみ)さまをお迎えして、一年護られて、楽しく暮らしたいと思います。

           南無阿弥陀仏  合掌

月かげ167号

山賤(やまがつ)が白木(しらき)の合(ごう)子(し)そのままに

   漆(うるし)つけねばはげ色(いろ)もなし

 

 

西山上人

 

紅葉の季節となりました。

さて、去る十月二十二日の夜から二十三日の朝方にかけて、台風二十一号が来襲しました。

二十二日、梶取総持寺では、毎年恒例の「念仏と講演の集い」が予定されていましたが、悪天候による被害を予想して、参加者の安全を考慮し中止となりました。阿彌陀寺でも、法事が二軒入っていましたが、一軒は延期、もう一軒はどうしてもこの日にということで、本堂だけのお勤めにして、後日、晴れてからお墓に参りました。

ご本山では、樫(かし)の古木が根本から折れて消防道をふさぎ、柏(びゃく)槇(しん)の太い枝が折れるなど、表参道も紅葉参道も、折れた枝と風に飛ばされた青葉で、緑のじゅうたんを敷き詰めたようなありさまでした。

二十六日に西山忌も控えていましたので、清掃作業が急がれましたが、内局・職員・随身学生一同、協力して無事に終わりました。紀ノ川も有田川もやはり被害が出て、南海線も橋梁(きょうりょう)が崩れ、運休となりました。

自然の猛威はどうすることも出来ません。しかし、嵐が去った後の人々の協力、助け合いには心動かされます。道路に飛んできた木の枝一本だけでも、片付けると皆のためになる。目に見えないお蔭さまの力こそ、私たちを支え、そして全ての人々の幸福に通じていると思うこの頃です。


南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第166号

仏心とは

大慈悲これなり

 

 

   仏説観無量寿経

 

すっかり秋ですね。過ごしやすい季節となりました。

さて、去る九月三十日、京都西山高等学校通信単位制課程の後期卒業式が行われ、十四名の生徒が卒業し、理事長として祝辞を述べさせて頂きました。

京都西山高等学校は、総本山光明寺第六十九世法主・関本諦承(たいじょう)上人によって九十年前に設立された宗門校です。

その建学の精神は、「学仏(がくぶつ)大悲(だいひ)心(しん)」(仏の大悲心を学ぶ)です。さらに、み仏の慈悲(じひ)と智慧(ちえ)を学ぶ、とあります。元来、慈悲も智慧もみ仏より授かるものです。実際には、慈悲と智慧といってもピンとこないかもしれません。

そこで、まず智慧は、正(しょう)見(けん)に通ずるということで、あらゆる角度から物事を眺めることが大切である、とお話し致しました。たとえば、ひとつの出来事を眺めたとき、あらゆる角度から眺めて、初めて真実に近づく、といったようにです。一面から眺めただけでは真実は見えません。

そして、慈悲については、人の悲しみに本気で寄り添うことが大切である、傍観者としてではなく、と伝えさせて頂きました。

去る九月十一日、師匠橋本随暢上人の七回忌が厳修されました。

懐かしさと共に、師匠の偉大さ、布教伝道の大切さを、改めてしみじみと感じる今日この頃です。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第165号

浄土門は愚痴(ぐち)に還(かえ)りて

極楽に生ず

         法然上人

 

 

九月になりました。

夏の終わりは寂しく感じます。盛んであったものが、色褪(いろあ)せてゆくからでしょうか。 

さて、私たちは、氾濫(はんらん)する情報に麻痺(まひ)してしまっていますが、世界を駆け巡るニュースは、そら恐ろしいニュースばかりです。

人間の愚かな行為は、自然界の動物たちの弱肉強食の世界と比べるまでもなく、罪深いと言わざるを得ません。

私たち念仏者は、「ただ争いを捨てて念仏に帰せよ」という、宗祖法然上人のみ教えを素直に頂くほかはありません。

本山での生活は静かなものです。朝五時半、ご法主猊下(ほっしゅげいか)と勤める晨(じん)朝(じょう)勤行(ごんぎょう)で、ご法主自ら、「天下和順之(てんげわじゅんの)文(もん)」をお唱えになります。阿弥陀仏四十八願を説く『仏説(ぶっせつ)無量寿経(むりょうじゅきょう)』の一節です。

 

天下(てんげ)和順(わじゅん) 日月(にちがつ)清明(しょうみょう) 風雨(ふうう)以時(いじ) 災厲(さいれい)不起(ふき) 国(こく)豊(ぶ)民安(みんあん) 兵戈(ひょうが)無用(むゆう) 崇(す)徳(とく)興(こう)仁(にん) 務修禮(むしゅらい)譲(じょう)

 

 平和を願う人間と、自我のために勢力拡大をはかる人間の分かれ道は何処にあるのでしょうか。

 私たちは、念仏こそが真の平和と繁栄に至る道と理解して、阿弥陀仏と二人連れの人生を歩んで参りましょう。

          南無阿弥陀仏  合掌