月かげ123号

()()不遠(ふおん)

(ここ)去ること遠からず 

 

 

 

仏説観無量寿経より

 

今年は、寒く長い冬に感じましたが、いつの間にか境内の椿が満開となり、木蓮の蕾が膨らみ、芝生も芽吹いて参りました。

阪神大震災、そして、東日本大震災と福島の原発事故などを経て、私の人生観が少しずつ変わって参りました。

今の日本では、自分探しとか、幸福探しとか、そんな言葉が溢れています。それはそれで、否定する気はありません。しかし、それ以前に、仕事は他者のためにするもの、はたらくとは、はたをらくにすること、この当たり前のことを忘れている日本人が増えているように思われてなりません。本来、仕事とは、仕事そのものの中にこそ、喜びと尊さがあるはずです。

かつて、師匠の橋本随暢が、義務と権利主張についてのお説教を、楽しい口調で語る度に、私も笑いながら聞いていた記憶がありますが、義務とは、人間として、人間が社会の中で生きていく上で当たり前に果たさなければならないものであり、権利とは、人間の尊厳が傷つけられないように護るべきものであって、自ら自己の利益のためにのみ主張すべきものではありません。

平和のありがたさに感謝するにつけても、大地に根を下ろした教育がなければ明るい日本の未来はないように思われます。

土を忘れ、パソコンに依存した生活は人間の健全な暮らしではありません。

禍福(かふく)はあざなえる(なわ)のごと人間明日のことはどうなるかわかりません。だからこそ、今の時にしっかりと信仰を確立することが大切なのです。

「まずは胸に仏を宿せ」、先徳の言葉が、心に響いて参ります。

   南無阿弥陀仏      合掌

月かげ122号

 

 

念佛是因

成佛是果

 

 

 

台湾仏教の言葉より

 

 春が近づいて参りました。

 冬の本山の朝の勤行は、六時十五分から始まります。勤行前、自室から御影堂(みえどう)(本堂)へ行く途中にある寒暖計を見ることが、私の朝の習慣になっています。今頃は、大体一~三度位の日が多いようです。一時間弱の、お朝事(あさじ)を終えると、身体(からだ)が芯まで冷えます。お朝事を終え、庫裏の受付まで戻る途中、美しい朝焼けを眺めることが度々あります。そんな日は、何か得をしたような気持で一日が始まります。

 本山では、二月二十日に、随身卒業生の御礼拝が行われます。今年は、五名の随身学生が旅立ちます。彼らの二年(または一年)の日々は彼らを育み、彼らの人生を豊かなものにしていると思います。

 一、掃除 二、勤行 三、学問 四、始末の実践は、本山随身学生の基本です。私自身、彼らと、同じ釜の飯を食べ、一緒に風呂に入り、生活を共にすることで、日々、新鮮な刺激と学びを彼らから得ています。

 彼らには、ことあるごとに、「弥陀の本願に目覚めよ」とさとして参りました。そして、彼らからは、「救われたらどうなりますか」と尋ねられます。「自己の救済への疑いが消えて、安らかな気持ちになるよ」と、伝えています。

 本山は、随身学生なしでは成り立ちません。今年、五名が旅立ち、三名の入山者を迎えます。共々に、よろこびの念仏に生きて参りたいと思っています。

 

    南無阿弥陀仏     合掌

月かげ121号

 

 

念仏(ねんぶつ)一行(いちぎょう)

 

 

 

 

『選択本願念仏集』より

 

 新年おめでとうございます。

 今年が穏やかな一年となりますよう、念じます。

さて、「念仏一行」とは、阿弥陀仏からの私たちへのはたらきかけを表わすことばです。つまり、阿弥陀仏が、ご本願によって私たち一人ひとりを救済し、幸福へと導く深い願いの表われをいいます。阿弥陀仏への衆生の側からの行為が称名(しょうみょう)であり、(おく)(ねん)(心に弥陀を(おも)うこと)です。すなわち、私たちにとって最も大切なことは、阿弥陀仏を忘れず、ご本願を忘れないということです。

年末には多くの方々がお墓参りをされました。私たちの思いのうちには、阿弥陀仏とご先祖さまが無意識(むいしき)(こん)(ぜん)一体(いったい)となっているように思われます。それは、ごく自然なことであると思いますお浄土に、ご往生されたご先祖さがおられることを思えば、不思議なことではありません。

 亡くなられたお父ちゃんやお母ちゃん、また、お兄ちゃんらがいつも護ってくれているという思いは、阿弥陀さまと一体となられたご先祖さまからの願いが自然と受け止められているということではないでしょうか。

我が宗では、生きている今も弥陀の(ふところ)()く先は極楽浄土、阿弥陀さまと二人連れの人生、ご安心(あんじん)を頂いて()(ぎょう)に生きるを(むね)とします。起行とは、お念仏をよろこぶこと、また、分に応じて自分の使命を果たすことです。

今年もお念仏をよろこび、ご先祖さまを大切にして、ささやかながら、幸福な世界の実現を目指して参りましょう。

    南無阿弥陀仏     合掌

 

月かげ120号

 

(こう)(だい)()しは見しかは見ざりしを

聞きてぞ見つる白河の関

 


 

西山證(せいざんしょう)(くう)上人

 

 早いもので師走となりました。

十二月十一日は、(ずい)(ちょう)師匠三回忌正当(しょうとう)命日です。

師匠が()かれた念仏の種は各地で確実に育っていると思います。中でも師匠の功績は多くの弟子を育てたことカナダ東漸寺(とうぜんじ)を建立したこと、そして、約二百回に及ぶ五重相伝・授戒の(かん)(かい)(説戒)を勤めたことです。そのご縁(あずか)た方々から今も御礼を言われることが度々あります。

正直、師匠を超えるお説教はあまり聞いたことがありません。お念仏を伝えるには、自らが正しい信仰を持たなければ、ひとに伝えることは出来ません。

お念仏を唱えれば幸福になる、これは事実です。更に、阿弥陀仏のご本願の因縁を知れば、そのかたじけなさに(おの)ずと頭が下がります。

法然上人が理想とされた人物像は、讃岐(さぬき)(しょう)()のような(みょう)好人(こうにん)でした。私は師匠の中に讃岐の庄松に通ずる念仏信仰と人間性を感じます。特にひとを分け隔てしない感性は到底及ぶものではありません。

師匠は三回忌を迎えましたが、私の周りでは今も毎日、師匠の話題を聞かない日はありません。それだけ存在感の大きい方であったと思います。

さわやかな春風のような印象を残して、お浄土へと帰られた師匠は、今も皆をお浄土から見護ってくれているように思われます。

    南無阿弥陀仏     合掌

月かげ119号

 

勝縁勝境悉(しょうえんしょうきょうしつ)現前(げんぜん)

 

(勝縁、勝境、(ことごと)く現前す)

 

 

善導大師「要懺悔(ようさんげ)」より

 

 

 

 紅葉が少しずつ色づいて参りました。天候不順とはいえ、十一月ともなれば、やはり秋が深まってきました。

 

秋は文化の季節。文化祭や秋祭りが各地で行われ親交が深まったことと思います。

 

二十年ほど前、当時の御本山のご法主の上田御前さまの御尊講で、念仏信仰と因縁果の法則が同じであると伺ったことがありました。当時はその意味がわからず、ノートに大きく「?」を書いたことを思い出します。

 

今、念仏と因縁果の法則が一つであるということは、当たり前のこととして理解できるようになりました。最高の縁とは、弥陀の本願に触れて念仏を唱えることです。すると因縁果の法則に従って最高の結果となる。すなわち幸福な世界が現前するということです。悪いことをすれば必ず巡り巡ってその報いは受けなければなりません。最高の勝縁である本願念仏の縁に従って暮らすとき、善因(ぜんいん)善果(ぜんか)の穏やかな日々を過ごすことになるのだと思います。念仏は()(ぎょう)(どう)われますが、意識的にお念仏を唱え続けることは体験上難しいことです。しかし、阿弥陀仏のご本願を常に忘れず、本願より(すぐ)れたものは他にないと自覚して、折に触れてお念仏をお唱えすることはさほど難しいことではありません。現在の私の思いとしては、それが最も自然な私の念仏信仰です。

 

本願最為強(ほんがんさいいごう)勝縁勝境悉(しょうえんしょうきょうしつ)現前(げんぜん)衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)は、私の信仰生活のキーワードです。秋の夜長は、み仏さま、ご先祖さまの御加護について思いを巡らすよい季節だと思います。

  南無阿弥陀仏     合掌

月かげ第118号

たったひとりしかない自分を

たった一度しかない一生を

ほんとうに生かさなかったら

人間、生まれてきたかいが

ないじゃないか

 

   山本有三路傍の石』より

 

過ごしやすい季節となりました。

昨年十月一日よりご本山に勤めるようになって、一年が過ぎました。あっという間の一年でしたが、振り返ってみれば長かったような気もします。一年間、大きなトラブルもなくつつがなく過ごさせて頂けたことに、心より感謝しております。

二年目を迎えるにあたり思いますのは、やはり、み教えの弘通(ぐづう)ということです。

善導大師の『日中(にっちゅう)礼讃(らいさん)』「三尊(さんぞん)(らい)」に、「本願最為強(ほんがんさいいごう)」とあります。「本願最も強しと()す」。この世界には、弥陀のご本願より強いものは何もないのです。

わが宗の近代の第一人者、関本諦承(せきもとたいじょう)上人は、弥陀による私たちの救済を、「慈悲(じひ)正因(しょういん)」と示されました。弥陀のお慈悲によって救われるという意味です。弥陀のお慈悲の源はご本願です。十劫(じっこう)(永遠)の昔、ご本願が成就されたとき、同時に、私の救済もまた成就されました。救済とは幸福という意味です。

極楽浄土のサンスクリット語のスカーヴァティーは、「(さち)あるところ」と直訳されます。

私がたどり着いた人生の目的・・・。

弥陀のご本願によって、私自身が救済され、幸福となる。だから私はお念仏を唱え、ご本願を伝える・・・。

七年後、二〇二〇年三月、当山では五重相伝会を勤めます。その年の夏、東京で再びオリンピックが開催されます。二〇二〇年に向けて、五重相伝会の準備を少しずつ進めて参りたいと思いますので、皆さま方には結縁されることをお勧め致します。

  南無阿弥陀仏     合掌

月かげ第117号

はじめにはわが身の程を信じ、

のちには仏の願を信ずるなり。

 

 

法然上人『御消息』より

 

暑かった夏がようやく終わろうとしています。私も、お盆が終わりご本山での生活に復帰して、少しずつ体調が戻って参りました。

早朝のお勤めより始まるご本山の生活は、朝六時半の朝食、正午の昼食、夕方五時の夕食と、万事規則正しく、ただ生活しているだけで、浄まってゆくのがわかります。結果、心が落ち着き体調もよくなってゆきます。

法然上人立教開宗の地、そして、法然上人のご本廟をお祀りする聖地、お念仏の根本山(こんぽんざん)、浄土門根元地でのお念仏の日暮らしは至福の時間です。

この度、ご本山で、『若き僧侶との出会い』が企画されました。初秋の光明寺で過ごす有意義な時間、秋のご本山で若き僧侶たちと共に、一日生活体験してみませんか。光明寺の空気とお念仏に触れ、身も心も(きよ)まりリフレッシュできると思います。諸堂を巡り、読経を体験し、法話を聞き、写経をして頂きます。 

回向(えこう)以外での一般檀信徒の方々へのご本山の開放は(まれ)なことです。

当山の檀信徒の皆さまも、思い切って参加してみては如何(いかが)でしょうか。ご本山でお待ち申し上げます。

  南無阿弥陀仏     合掌

 

若き僧侶との出会い申し込み要項

 

日  時: 9月28日()・29日()
場  所: 総本山光明寺
募集人数: 30名 (男女年齢不問)
: 8000円 (1泊2日)

申込締切: 9月20日

詳しくは総本山光明寺のホームページをご覧ください。