月かげ130号

あみだ仏(ぶ)

そむる心の色にいでば

秋のこずゑ(え)のたぐひ(い)ならまし  

 

 

        法然上人(しょうにん)

 

秋が少しずつ深まって参りました。

本山のもみじも少しずつ色づいてまいりましたが、例年になく、なら枯(が)れもあり、異常気象の影響が本山にも及んでいます。

さて、世界に目を向けてみますと、未だ各地で紛争が繰り広げられ、宗教的対立を中心として、自国の我欲のため、罪のない多くの人々が巻き添えとなり、命が奪われています。日本はかろうじて平和が保たれていますが、安閑(あんかん)としていて、大丈夫なのかと危機感が募(つの)ります。

さて、冷静に眺めますと、国家間の対立から、身近な人間関係の対立まで、全ての対立は、自我の対立に行き着きます。

我執(がしゅう)を超えるのは宗教であり、また、我執ゆえに宗教的対立は根深いという矛盾があります。そして、全ての宗教が目指す平安な境界(きょうがい)は、実にこの自我の彼方(かなた)にあるものです。

禅に「両忘(りょうぼう)」という言葉がありますが、是と非、善と悪、苦と楽、美と醜、愛と憎など、全ての二元的対立を忘れ去ったところに開かれる世界こそ、みほとけの世界、お浄土であります。

異常気象による木のなら枯れも、様々な災害も、全て自然の摂理によってもたらされるものです。

それら自然災害に対しては、対策を怠らず、人間同士、あらゆる対立を超えて、平和に暮らすことが出来れば・・・。

「地上に毛皮を敷(し)き詰めることは不可能だが、一足の靴を履(は)けば、世界を安全に歩くことが出来る・・・」との仏教のみ教えがありますが、その一足の靴こそが、私にとりましてはお念仏のみ教えです。

念仏で全ての二元対立を超えて、安らかに楽しく謙虚に暮らして参りたいものです。

南無阿弥陀仏 

 合掌

 

月かげ129号

南無(なむ)阿弥陀(あみだ)

 ほとけのみなと思(おも)ひ(い)しに

    唱(とな)ふ(う)る人のすがたなりけり

  

            西山(せいざん)上人(しょうにん)

 

台風に荒れた夏も、少しずつ秋めいて参りました。

私(わたくし)ごとになりますが、去る八月十七日、父の弟の千葉の叔父(おじ)さんが亡くなったという知らせが届きました。たしか、八十五歳であったかと思います。叔父さんは、父と同じく東京生まれで、少年の頃、豆腐屋に修業に入り、一生涯、昔ながらの旨(うま)い豆腐をご夫婦で作って、晩年は店をたたみ、悠々自適(ゆうゆうじてき)の生活であったと聞いております。

叔父さんは、父の兄弟の中でも、ひときわ情の深いお方でありました。祖父母や父が亡くなったとき、祖父母や父の体にすがって、おいおいと声をあげて、泣きじゃくっていたのを覚えています。

スーパーが近くにできて、一時、客が離れたが、昔ながらの豆腐を作り続けていたら、客が戻ってきたと、喜んでいたことが思い出されます。

ひとは一人では生きてはいけません。叔父さんの一生は、旨い豆腐をお客さんに届け続けて、暑い夏には冷ややっこで、寒い冬には湯豆腐で、春や秋には美味しい味噌汁で、豆腐を食べる人々を、ひとときの幸福へと導いていたことだろうと思います。

それが、叔父さんの、衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)の菩薩(ぼさつ)行(ぎょう)ではなかったかと・・・。

今頃はお浄土で、父や両親たちと再会し、永遠のいのちとなって、光明の中で、至福のときを迎えていることと思います。

真実、価値あるものとは何か、それは、世間の地位や名誉や金ではない、まごころと使命をもって、謙虚に、そして、安らかに楽しく人生を全うすることでありましょう。願わくは、みほとけと共に・・・。

                     南無阿弥陀仏  合掌

月かげ128号

大いなるものにいだかれあることを

  けさふく風のすずしさにしる

                   山田無文老師

 

 

八月になりました。今年も、お盆の季節が巡って参りました。当山でも、お盆の準備を少しずつ進めています。

さて、世間の風潮(ふうちょう)では、ご先祖さまの供養やお葬式を簡単に済ますことが増えていますが、残念に思います。両親やご先祖さまへの感謝の思い、人の命が、死んで消えてなくなるのではないという実感があれば、そのようなことはないと思います。

お盆は、あの世とこの世が混(こん)然(ぜん)一体(いったい)となる、一年のうちでも特別な時間です。

子供の頃、私の故郷の新潟県の魚沼地方では、八月十三日の夕暮れ時から、子供たちが提灯(ちょうちん)を持って、各家々から一斉(いっせい)にお墓参りに出かけたものでした。広い墓地にはロウソクの灯(ひ)がともり、子供たちは、お墓のお供え物を頂いて帰ったものでした。墓地全体がたくさんのロウソクの炎にゆらゆら揺れて、幻想的で、少し怖い風景であったことを覚えています。お墓に佇(たたず)んでいると、(死後の世界はきっとある、だからご先祖さまたちを全ての家々の人々がお祀(まつ)りされているのだろうなぁ・・・)と、おぼろげながら感じたものでした。この世とあの世が、表舞台と舞台裏であることが実感されれば、自ずと先祖供養の意味も変わってくると思います。

人の命は大切にしなければならない。この当たり前の真理を忘れたとき、国は戦争へ近づく道を選び、原子力を推進し、子供たちは命を軽んずる道を歩むのだと思います。

お盆は自分の命と他者の命と亡くなった方々の命が通い合う特別な時間です。

   南無阿弥陀仏

                     合掌

月かげ127号

  初めよく

  中よく

  終わりよく

 

 

       『法句(ほっく)経(きょう)』より

 

梅雨時です。

梅雨は、じめじめとして、うっとうしく感じますが、この時季は、紫陽花が咲き、かたつむりが遊び、蛍が飛び交う季節でもあります。かれらにとっては、その一生の中でも、特別な季節です。

さて、『法句経』に、「初めよく 中よく 終わりよく」と、説かれています。

昔、得度の師である長空(ちょうくう)師のおことばを勘違いして、「終わりよければ全てよし、ですね」と、念を押したところ、「初めよく 中よく 終わりよく、です。終わりよければ全てよし、などという薄っぺらいものではない」と、叱られたことを思い出します。

わが宗のみ教えは、安心(あんじん)の上の起(き)行(ぎょう)でありますが、わが身を振り返りますと、ご縁任せとはいうものの、先徳の皆さまのような、衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)の人生とは決して言いきることができないのが正直なところです。

ただ、ご本山に勤めさせて頂くようになって、ご本山で働く職員さんの中に、ご本山に対する極めて深い愛山(あいざん)護法(ごほう)の思いを持って、日々精進しておられる方々がいることを知り、「私もまた」との思いで、過ごさせて頂いております。それもまた、起行でありましょう。

よりよい宗門、よりよい本山、念仏の弘通(ぐづう)を目指して、念仏の日暮らしを続けて参りたいと思います。

   南無阿弥陀仏 

     合掌

 

注・衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)

  (衆生は無辺なれども誓って度せんことを願う)

  衆生は数限りなく存在するが、誓って、全員を救済したいと願う、という意味。

 

月かげ126号

啓(けい)白文(びゃくもん)

 

光明徧(こうみょうへん)照(じょう) 十方(じっぽう)世界(せかい)

念仏(ねんぶつ)衆生(しゅじょう) 摂取不捨(せっしゅふしゃ)

如来の光明は徧(あまね)く十方世界の念仏の衆生を照らして摂取して捨てたまわず)

                    『仏説観無量寿経

 

衣替えの季節になりました。

さて、去る五月十日・十一日・十七日・十八日の四日間にわたり、広川町井関・圓光寺さまにて厳修(ごんしゅう)されました五重相伝の勧(かん)誡(かい)のご縁に与(あずか)りました。五重相伝は念仏の相伝であり、私たち一人ひとりが念仏衆生となって、幸福な一生を過ごすために必要な法会(ほうえ)です。

では、念仏衆生とはどのような人を指(さ)すのでしょうか。

わが宗においては、「阿弥陀仏、われを摂取したもうと信ずる人を念仏衆生という」と定義されています。阿弥陀さまが、私を今ここで摂(すく)い、一生涯にわたって護り導き、いのち尽きるときに極楽浄土へ迎え取ると信じる人を念仏衆生という、ということです。そして、この信心は縁に随って全ての人々が必ず阿弥陀さまから授(さず)かると示されています。 

では、なぜ念仏を唱えると幸福になれるのでしょうか。それは、お釈迦さまの示された因縁果の法則によって、最高の因と縁がお念仏だからです。すなわち、

「よろこべば よろこびごとがよろこんで よろこびあつめ よろこびにくる」

という歌のように、最高の善因である念仏をよろこぶとき、最高の人生が展開されるということです。

時々、阿弥陀さまは本当にいるのでしょうか、という質問を受けます。ドイツの神学者にして哲学者であるシュライエル・マッハーは、「宗教は体験によってのみ現存しうる」と述べています。すなわち、宗教は体験が証明するものであるという意味です。私の場合、父や師匠の往生に立ち合った体験や日常における阿弥陀さまの導きとしか考えられない体験によって、阿弥陀さまの存在を確信しています。

啓(けい)白文(びゃくもん)は、わが宗におけるお経の中心であり、教えの要(かなめ)です。念仏に出合い、阿弥陀さまに摂取されたよろこびの念(おも)いをもって、お唱えして参りましょう。

 

  南無阿弥陀仏 

     合掌

 

 

月かげ125号

 

いろいろの

   花のにほひを朝ごとに

    四方の仏に

       たむけつるかな

 

             證恵上人

 

 

 

五月になりました。

今、お寺では、つつじの花が満開です。他にも、こでまりや鉄線、さまざまな花が咲き乱れています。花の周りには、蝶やミツバチなどの昆虫が、蜜を求めて賑やかに集まっています。自然はお互いに共存しているということが感じられて、微笑ましく思います。また最近、裏庭に大きな(たぬき)が出没します。こちらは、あまりの大きさにギョッとしますが、今のところ被害もないので共存させて頂いています。ただ、寺の猫のミーコだけは、の気配に過敏に反応していますが・・・夜は夜で、フクロウの鳴き声が聞こえ、自然に囲まれて暮らす幸いを感じています。

私自身は、特に花や植物を育てるわけでもなく、ただ普通に暮らしているだけですが、下津浦で、そして本山で、五月の木々の緑や花々の生命力と美しさに、折々、驚き、かつ小さな感動を味わっております。

お釈迦さまは、その最晩年に、ヴァイシャーリーの小高い丘の上から街を見下ろして、「ヴァイシャーリーは美しいねえ。人生は美しいねえ。甘美(かんび)ねえ。」とおっしゃられました。

五月は、新緑と花々に(いろど)られた美しい季節、私の好きな季節です。

 

   南無阿弥陀仏 

 

     合掌

 

月かげ124号

 

 

今今と

 今という間に 今ぞなく

今という間に

   今ぞ過ぎゆく

 

道歌(どうか)

 

気づいてみれば、長い冬が終わり、桜が満開となりました。

本山では今、加行(けぎょう)の真っ最中、アミダーブナムアの声が境内に響いています。今年は寒さのためか未だ鶯の鳴き声を聴きませんが、満開の枝垂れ桜には花の蜜を求めてか、たくさんのメジロたちが集まっています。カメラを持った観光客の皆さん桜を目当てに多く訪れています。

桜の季節の本山は、まさにお浄土のようです。

今年は本山で修行している五人の随身学生たちが入行(にゅうぎょう)していますが、日々寝食を共にしている彼らの姿が、別人のように感じられ、私も身の引き締まる思いです。四月七日に伝法(でんぼう)、四月八日に伝戒(でんかい)を授かって一人前の僧侶に一歩近づくわけですが、しっかりとお念仏を頂いて欲しいと願っています。

アミダーブナムアは、(ぎょう)(がん)具足(ぐそく)の念仏といわれ、阿弥陀さまのはたらき()に引かれて南無の私が行じてゆくという意味です。これが満行の満座法要を終えると、ナムアーミダーブゥの(がん)(ぎょう)具足(ぐそく)の念仏に変わるのです。阿弥陀さまの願いを宿した南無の私が、人々に念仏を伝えてゆくという意味を表します。アミダーブナムアは、我が宗の僧侶が一生に一度、加行の間だけお唱えする(ぎょう)(どう)念仏なのです。

四月九日、桜吹雪の中、二通の許可状(こかじょう)を胸に荘厳(しょうごん)()に身を包んだ満行の行人たちの顔は浄土の菩薩そのものです。

加行に(たずさ)わって二十三年、今年も十四人の行人たちが、無事満行を迎えることを心より願っています。

   南無阿弥陀仏 

     合掌