月かげ第185号

令和(れいわ)元年(がんねん)

 

令(れい)月(げつ)にして 風(かぜ)和(やわ)らぐ

 

(よき月が出て 風は和らかに

渡ってゆく)

 

令和元年となりました。

よい響きの美しい名の元号だと思います。元号の如く、穏やかな日々が続くことを願います。

さて、去る四月二十五日、総本山光明寺御忌(ぎょき)の満座(まんざ)に、下津町西山浄土宗総代連絡協議会より、バス四台、百八十五名の団参が駆けつけて下さいました。当山からも、梅田地蔵寺と合わせて四十名を超える皆さまにお参り頂きました。

当日は、総勢四百名を超える満堂の中で、法然上人のお徳を称(たた)える御忌満座の疏(しょ)を拝読させて頂きました。

疏を拝読中(はいどくちゅう)は、当初、無心でありましたが、途中、ああ、平成が終わってゆく、と不思議な感情に包まれました。

人々の心は温かく、弥陀のお慈悲に潤(うるお)っています。(蒙(む)潤(にん))

今回は大勢のお参り、ありがとうございました。

私はただ、感謝の光に包まれて、お念仏をよろこび、自ら南無阿弥陀仏を信じ、伝えてゆくばかりです。

 南無阿弥陀仏    合掌

月かげ第184号

遷座(せんざ)祭(さい)

春光(しゅんこう)射(さ)して

鎮(しず)まりぬ

 

月空

 

 

いよいよ新元号元年を迎えます。

去る三月二十四日午後三時より、総本山光明寺において、新しくなった鎮守社の遷座祭が厳修(ごんしゅう)されました。

 光明寺の鎮守社は、往古(おうこ)より熊野本宮大社の熊野(くまの)大権現(だいごんげん)さまと、石(いわ)清水(しみず)八幡宮(はちまんぐう)の八幡大菩薩さまをお祀りしています。二柱(ふたはしら)の神さまは共に本地(ほんじ)阿弥陀仏垂迹(すいじゃく)神(しん)です。

 当日は、石清水八幡宮さまより四名の神職がお見えになり、丁寧な作法で、ご法主猊(ほっしゅげい)下(か)導師のもと、遷座祭が厳修されました。

 朝から晴れたり曇ったりの天候でありましたが、遷座祭が終盤を迎え、代表者が玉串(たまぐし)を捧げた刹那(せつな)、雲間より陽光が射し、辺り全体が光に包まれました。

 「あっ、神さまが鎮座(ちんざ)なされたな」

と、感じたことでした。

 後日、改めて石清水八幡宮さまへお礼に伺ったおり、遷座祭で斎(さい)主(しゅ)を勤められた西中道(にしなかみち)氏と、しばらく歓談(かんだん)致しました。

西氏がおっしゃいますには、「神道には教義がないので、自由な形でお参りをされたら結構です。私は日々、神さまのご恩に感謝し、一生修行して参りたいと思っています」と、にこやかにおっしゃられておりました。西氏のお気持ちが通じてきて、ほのぼのとしたひとときでありました。

 神仏に畏敬(いけい)の念を抱(いだ)き、感謝を捧げて暮らすことは、神道(しんとう)においても、仏道(ぶつどう)においても同じであることを再確認させて頂いたことです。


    南無阿弥陀仏    合掌

月かげ第183号

菜の花や

月は東に日は西に  

 

 

与謝蕪村

 

 

 

春のお彼岸が近づいて参りました。

先日、有田市民会館で映画を見ました。和歌山を元気にする活動をしている人たちが主催するイベントで、友だちが司会をしていました。映画は「ガイアシンフォニー第八番」でした。映画の中で美智子妃殿下のお話が紹介されていました。その中に、「苦しみや悲しみを胸の中に押し込んで、心の中で泣いている人がいます。そのような時、音楽を聴くことによって、心の中の涙が外にあふれ出します。だから音楽は必要なんです。」というような、お話でした。

いつまでも泣いてばかりはいられないと、元気にふるまう中で、頑張りすぎて自分の心や身体が悲鳴をあげてしまうこともあります。だから、そんな時はゆっくり音楽を聴いて、涙したり、元気に歌ってみたり、音楽の力はそんな風に人を癒(いや)してくれるのだなぁと思いました。

今、阿彌陀寺では観音堂の修復工事中です。シロアリに食べられたボロボロの木も、まだ使える木と使えない木に分けて、修復されます。建立当初の元気な木も残っています。木は水に弱いから雨漏りは大敵、上手に乾燥させて、大事にしたら何百年でも持つということです。

観音堂の裏に発見された古墳(こふん)も珍しい形態だそうです。河内長野市から来られた横穴式古墳の専門家の先生も驚いて、上の部分は徳島の古墳に似ているとおっしゃって、これからまた本格的に調査してくれることになりました。

地球は生きています。そして、私たち人間も進化しながら、繋(つな)がりながら生きています。亡くなられた人たちが応援してくれている、今の頑張りが未来に続く・・・と思いながら、全てのいのちを大切にしていきたいと思います。  合掌   

(文・さよ)

月かげ第182号

蒙(む)潤(にん)

(潤(うるお)いを蒙(こうむ)る)

  

   

 

早二月です。

水仙の花が咲いています。間もなく梅も開花するでしょう。

寒い季節に咲く花は、ひときわ可憐に感じます。われわれ人間もまた、冬は自然と身が引き締まるように感じられます。

さて、仏教に蒙(む)潤(にん)という言葉がありますす。潤(うるお)いを蒙(こうむ)ると書いて「むにん」と読みます。

蒙(む)潤(にん)とは、善(ぜん)知識(ちしき)(本願念仏の語り部)より、お釈迦さまが説かれる阿弥陀仏の本願念仏の謂(いわ)れを聞いて、私たちの心が、ちょうど真夏の夕立の雨を浴びて干からびた草木が活き活きと潤った状態のさまとなることを指します。私たちは、善知識より、お釈迦さまが説かれた阿弥陀仏のご本願による救済の法門を聞いて、初めて安らかに楽しい幸福な生活を送ることができるのです。さらに、お釈迦さまの本願念仏の教説を聞いた人は、救済の自覚がなくても、臨終で必ず阿弥陀仏の来迎に与(あずか)るということです。

当山檀信徒の皆さまには、是非、来年厳修される五重相伝に結縁されることをお勧め致します。

五重相伝を受けると人生観が変わります。滅罪と往生と御加護を実感したみほとけと二人連れの人生が始まります。

お申込みをお待ち申し上げます。

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第181号

 

初詣(はつもうで) 小さき宮の 神仏(かみほとけ) 

   

 

                      長谷川かな女

 

 

新年おめでとうございます。

年頭にあたり今年が皆さま方にとりまして、穏やかな一年でありますことを心より念じ上げます。

さて当山では、年明けより昨年の台風の影響で着工の遅れていた観音堂の修復工事が始まります。来年の旧初午観音会式(えしき)には間に合うことと思います。今年の会式は本堂で勤めさせて頂きます。

また来年秋には、十五年半ぶりに五重相伝を厳修致します。多くの皆さまの結縁(けちえん)をお待ち申し上げます。

年が明け、私は正月五日に満六十歳を迎えます。正確には還暦(かんれき)は数え歳(どし)だと思いますが、満六十歳は感慨深いものがあります。

六十年の人生の成果は、温かな家族に恵まれたこと、お念仏の仲間に恵まれたこと、そして、本願念仏に救われたことです。

本願念仏に救われていなければ、私はどんな人生を歩んだのだろうかと思います。おそらく精神的に、もっと荒(すさ)んだ人生であったことだろうと思います。

この世に生まれて六十年が過ぎ、六十年の暦も一巡りしました。これからの人生は、より温かな気持ちで、自分が救われた本願念仏のみ教えを、自然な形でより多くの有縁(うえん)の方々にお伝えしていきたいと思います。

 

                南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第180号

光っている光っている

明けの明星が光っている

私が光っている

 

   

     釈尊お悟りのおことば

 

今年も早いもので師走となりました。

今年は六月の大阪北部地震、九月の台風二十一号と災害の続いた一年でした。しかし、それでも無事に師走を迎えることが出来ましたことを素直に喜びたいと思います。

お釈迦さまは、三十五歳の十二月八日の未明、インド・ブダガヤの菩提樹(ぼだいじゅ)の下に座(ざ)し、明けの明星を仰いでお悟りを開かれたと伝えられています。

光っている、光っている、明けの明星が光っている、私が光っている、と大宇宙と私が無量寿の一つのいのちであり、大調和の中にあると実感され、大いなるよろこびがむくむくと沸き上がり、大歓喜(だいかんぎ)に包まれたと伝承されています。

お釈迦さまのお悟りになられたその無量寿のいのちこそ、無量寿如来、すなわち阿弥陀仏であります。お悟りになられたお釈迦さまが大いなるよろこびに包まれた、そのことは、私たち西山のお念仏でいうところの歓喜の念仏、よろこびの念仏を表します。古き時代、よろこびと感謝は一つの同じ意味であったと伺ったことがあります。よろこびあるところ感謝あり、感謝あるところよろこびあり。

日々、感謝・合掌し「ありがとう。ありがとう」とお礼を言い合い、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とお唱えし合うところ、一切の争いを超えた、安らかで楽しい幸福な世界が展開されます。

年末、ご多用なこの時期、心乱れることなく、安らかに楽しくお念仏をよろこんで参りましょう。

阿彌陀寺ホームページアドレス

http://pipi99.wix.com/amidaji

 

南無阿弥陀仏  合掌

月かげ第179号

阿弥陀仏が慈悲をもって

私に入って下さっている

ことに気がつくことが

大事なことです

 

   総本山光明寺第八十六世

          堀本賢順法主

地震や台風など災害の多かった今年でしたが、ようやく紅葉の季節を迎えました。各所の甚大な被害のため、屋根屋さん、大工さん、左官屋さんなどの職人さんたちは、百軒待ち何十軒待ちが当たり前とお聞きしました。

さて、去る十月二十五日、京都西山短期大学開学記念式の記念講演で、作家の村上春樹氏のお話をお聞きしました。村上春樹氏の父上が西山浄土宗の僧籍を持たれていたご縁での講演でありました。講演ではその父上のご生涯をお話されました。四十五分間という比較的短い講演でしたが、言葉に全くよどみがなく、流れるようなお話に多くの聴衆が魅了されたことでした。

講演の最後は、

「父の人生はありきたりの一人の男の人生です。それは、広大な海の中の一滴の水に過ぎません。しかし、その一滴の水の人生を申し送る必要が私たちにはあります。私たちはその責任を忘れてはいけません」

というような内容であったかと思います。

一滴の水の人生を申し送る責任、それは昔、文字を知らなかった私たちの先祖が、それぞれの時代において、父の人生、母の人生を語り継ぎ、昔話や教訓として脈々と受けついできたこととつながるような気がしました。

父の人生や母の人生をかみしめ、子孫に伝えてゆく。これこそが、最高の教育でありましょう。目から鱗(うろこ)の講演を拝聴させて頂けたご縁に深く感謝致します。

南無阿弥陀仏  合掌