月かげ第230号

よろこべば

よろこびごとが

よろこんで

よろこびあつめ

よろこびにくる

 

寒さ厳しい二月。梅の開花ももうすぐです。

今年のお講(八百十二回御忌会)も皆さまのお陰で無事に厳修されました。

「人生は甘美(かんび)だねぇ、人生は美しいねぇ・・。」

これはお釈迦さまが最晩年に語られたお言葉です。王子として生まれたお釈迦さまは何不自由ない暮らしをしていたのですが、世の中の苦しんでいる人を目(ま)の当たりにして、出家(しゅっけ)しました。そして、生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)、四苦八苦(しくはっく)という苦しみがあることを悟(さと)り、国中を歩いて多くの方をその苦しみから救いました。

その中に説いてくれている教えの一つが、阿弥陀仏(あみだぶつ)信仰(しんこう)です。法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)が私たちを救(すく)うために修行して下さって、誓願(せいがん)をたてて、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)と唱えれば、救ってあげると教えて下さったのです。

先日、ある九十歳の女性がお寺にお参りに来られ、毎朝、五十年以上阿弥陀(あみだ)経(きょう)をお唱え している、と話して下さいました。とても若々しくて、顔色もよく、本当に九十歳ですか・・・と、驚きました。阿弥陀経を何十年もお唱えしてこの方は護(まも)られてきたのだなぁ、と確信しました。「私は単純やから阿弥陀さまを信じてずっと唱(とな)えてる。」そうおっしゃって、ニコニコ笑って楽しいお話を聞かせて下さいました。宗派によってお唱(とな)えするお経は色々あります。どれも、お釈迦さまが亡くなられてお弟子さま方が残された大切なお経です。

今はユーチューブでも簡単にお経の解説をしてくれますので、若い方も聞いてみて欲しいと思います。九十歳になっても百歳になっても、元気に毎朝お経を読んでこの方のように、感謝できる人になりたいなぁ。そう思うこの頃です。                                  ⓢ

南無阿弥陀仏      合掌

☆ユーチューブとはインターネットで見える動画配信サービスです。

月かげ第229号

あらたまの佳き一年の

日の出かな

          月空

 

 

新年おめでとうございます。

昨年は、日々のニュースは、ロシア、ウクライナの戦争とコロナ禍で暮れました。年頭に当たり、今年が明るい一年となりますことを、心より祈念致します。

さて、歳を取ると、気力、体力の低下と健康面の衰えを実感せざるを得ませんが、逆に、神仏の存在を身近に感じるようになりました。

私には、神仏と直接対話する能力はありませんが、神という字は示し申すと書きます。佛という字は、人にあらずで、即ち人智を超えている、という意味だと伺ったことがあります。

神は、常に、小さな奇跡の連続で、私の進むべき道を示して下さいます。佛は、私をいつもお護り下さっています。この実感は、六十歳 を越えてから、如実に感じるようになりました。昔、周囲のおじいさんやおばあさんたちが、「神さまのおかげやよ」とか、「仏さまのおかげやよ」とか、「ご先祖さまのおかげやよ」とか言っていたその言葉が、その通りだったと感じる毎日となりました。

ちょっとしたチャンネルの切り替え、アンテナの向きを変えるだけで、不満、不安の毎日が、大満足、大安心(だいあんじん)の毎日に変わるということを、この二~三年の体験を通じて感じる今日この頃です。

随暢師匠がよく言っていた「神仏は見てござる!」という言葉・・・。

ほんまかいなと思っていたことが、「ああ、その通りであった」と実感される日々です。

今年一年、皆さま方にとりまして、佳き一年となりますように。そして、今年一年を佳き一年と致しましょう。 

                  南無阿弥陀仏      合掌

月かげ第228号

身体(からだ)で覚(おぼ)えるしかありません

 

 

    大工棟梁・中村外二(そとじ)

 

師走となりました。

令和四年もあと少しとなりました。

先日、和歌山城横の和歌山県立近代美術館に行って参りました。インドのマハラシュトラ州と友好交流している和歌山県が主催の展覧会です。今年は日印国交樹立七〇周年でもあり、インドの美術が紹介されています。

新潟県十日町市にある、ミティーラ美術館という所から、多くのコレクションも展示されています。実は、三十年程前に新潟へ行った際、義父に連れて行ってもらったことがあります。

新潟の家からは車で一時間ほどのところで、山の中にある廃校(はいこう)になった校舎が美術館になっていました。留守番のおばさんが一人いて、案内して下さいました。今思えば、あれが義父と一緒に行った一度きりのミニ旅行だったなぁと懐かしく思います。

ティーラ画はインドのミティーラ地方に伝わる壁や地面に描く絵で、鍋やランプに付着したすすや、花のサフランの花弁や花粉なんかを赤や黄に使い、白はお米を使っているそうです。竹や木の棒を細く削ってペンのように使うそうです。結婚式を祝う時にお家の壁に描いたりします。

ビハール州の片田舎の村に住むガンガー・デーヴィーさんと言う女性が二年間の歳月をかけて制作した「人の一生」という絵は圧巻(あっかん)です。僅(わず)か一週間程度で描かれた「スーリヤムッキーの木」(平安と希望という名の木)はそこに本物の木があるような感じをうけます。他にもインドのマハーラーシュトラ州の先住民が描くワルリー画や焼き物のテラコッタなど、凄い作品がいっぱい展示されています。

三十年前に見たガンガ・デーヴィーさんの絵をこうして、もう一度和歌山で拝見できたことは本当に嬉しいことでした。彼女はガンになってもインドのバクティ(信愛)ともいうべき神への一途な信仰が根にありました。私たちの阿弥陀仏信仰と共通する信仰心です。

展覧会は十二月二十五日まで開催されています。是非、足を運んで頂きたい思いです。

☆ 入場料一般は三百五十円です。

 


南無阿弥陀仏      合掌    

月かげ第227号

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山は

ありがたきかな

 

石川啄木

今年も、間もなく紅葉の季節です。

また、 秋は実りの季節、みかん採(と)りの季節でもあります。美しい季節を、平和に迎えられることに感謝ですが、世界に目を向ければ、胸が痛む事件、ニュースに溢(あふ)れています。とにかく、戦争だけは即刻やめて欲しい、というのが私たちの素直な願いだと思います。

さて、歳をとると、故郷がむしょうに恋しくなります。随(ずい)暢(ちょう)師匠(ししょう)も事あるごとに、「三(み)佐(ざ)、三(み)佐(ざ)、」と故郷の名前を口に致しました。

私も、一人暮らしの母が満八十八歳を迎え、年に二回は会いに行こうと決めました。故郷新潟まで七百キロあまり、元気な母の顔を見、お墓参りをし、故郷の霊峰八(れいほうはっ)海山(かいさん)を眺め、遥(よう)拝(はい)して参りたいと思います。

私の母方の姓は八(はっ)海(かい)です。八(はっ)海(かい)と読むのは、日本に数軒しかないと以前に聞いたことがあります。八海の姓は、八海山の山伏(やまぶし)で、八海山頼(らい)宝院(ほういん)という真言宗醍醐派(だいごは)のお寺の山号に由来します。

私は、標高一七七八メートルの越後(えちご)三山(さんざん)の一峰であり、日本二百名山の一つである八海山を日々仰いで成長致しました。小学校・中学校・高校の校歌には、全て、八(はっ)海山(かいさん)と魚(うお)野川(のがわ)が歌われています。

朝日に輝く八海山は見事に美しい・・・。そして日本酒「八海山」もまた格別です。

佳(よ)き故郷をもつことをよろこびつつ、ここ下津浦もまた、日本にまたとなき、みろくの里とも言えるふる里(さと)であります。

佳(よ)き故郷をもち、よきふる里(さと)に住む幸福を、しみじみと感じる今日この頃です。

南無阿弥陀仏     合掌  

月かげ第226号

弥陀(みだ)たのむ

身(み)となりぬればなかなかに

暇(いとま)はありて暇(いとま)なの身や

 

                        西山上人

 

秋の夜長となりました。

『月かげのいたらぬ里はなけれども 

ながむる人の心にぞすむ』

法然上人のこのお歌の意味を、月を見ながら時々考えます。綺麗なお月さまが顔を見せてくれている時、ふと、この歌が浮かんできます。お盆やお彼岸が終わり、本堂に並べられた塔婆が一本もなくなった時、大勢の人がお墓に美しいお花をあげられ、墓地が光って見えます。ご先祖さまのことを忘れて参らなくなったら、それは綺麗な月を見ないで寝てしまった時と同じかもしれません。

護(まも)ってくださっている阿弥陀さまがいるよ、と法然上人が教えてくださったこのお歌は、どんな時も、毎日毎日、忘れることなく、光って私たちを照らしてくださっている月を、阿弥陀さまに譬(たと)えられたお歌です。

元気に檀家さんがお墓にお参りされることは、光っている月を眺めている私たちがここにいますよ~という私たちからの月へのメッセージのような気がします。

                   南無阿弥陀仏  合掌    ⓢ

月かげ第225号

突(つ)き抜(ぬ)けて

天上の紺(こん)

曼殊沙(まんじゅしゃ)華(げ)

                山口誓子(せいし)

 

 

九月に入り、ようやく秋の気配です。

先日、墓地の水漏れが確認されました。昭和の時代に共同墓地として開発された場所です。今は亡き方々が中心となって共同で造成された区域で、水道工事をされた方も亡くなり、配管がどうなっているのかもよくわかりません。これから先、お墓を護る方々(かたがた)も代替わりして行く中、確実に維持出来る方向で進めなければなりません。

お墓参りは今も昔も変わりませんが、時代はどんどん変わり、仮想(かそう)空間(くうかん)で買い物が出来る時代です。メタバースといって、ゲームのように、百貨店の中を映像(えいぞう)で見ながらお買い物が出来るそうです。都会ではスーパーも無人化されてきて、買い物カゴに入れると支払い金額がデジタルで分かるそうです。ただ、これだけデジタル化が進んで、コンピューターに支配されても、人間自体はアナログです。ボタンで動く筈(はず)もなく、自分の足で歩いて、自分の頭で考え、自然に逆らわないことが一番です。

「人間にとって一番大切なものは信仰です。信仰はデジタルではありません。信仰はアナログですよ」と、ソフトバンクの社長の宮川さんがおっしゃっておられたそうです。

間もなく秋のお彼岸です。お彼岸はお浄土がもっともこの世に近い、太陽が真西に沈む季節です。皆さまのお参りをお待ち申し上げます。 

               南無阿弥陀仏  合掌    ⓢ

 

追記・宮川潤一社長の実家は臨済宗のお寺で花園大学の卒業生です。

月かげ第224号

月かげの

いたらぬ里はなけれども

ながむる人の心にぞすむ

              法然上人

 

 

 暑いお盆の季節がやって参りました。

今年の棚経は例年どおり、お参りさせて頂きます。

コロナ禍も二年を超えて、いよいよウイズコロナということで、上手に付き合うしかありません。一年一年、歳を重ねて、去年から、どれだけ成長したかは、小学生を見れば一目瞭然(いちもくりょうぜん)ですが、歳をとっても、成長し続ける、そんな環境や精神が大切だと思います。

最近、『預(あず)かりもの』という言葉を時々目にします。老舗(しにせ)のお店や、伝統文化など、昔ながらの生活に欠かせない、『預かりもの』、それは、とても大切な貴重(きちょう)なものです。

代々受け継がれてきたもの。たとえば、利休(りきゅう)さんのお茶碗などは、特別な預かりものだといえるでしょう。国宝になって国が護(まも)っているものも多いですが、お寺にも多くありますし、一般家庭にもあると思います。そして、そのような『預かりもの』は、ほんのひと時、その時代の人が使った後、また後(のち)の世の人が大切に使うのです。だから、自分のものとは言わず、『預かりもの』といいます。ある代の方が捨ててしまえば、それでおしまいです。だけど、たまに、それを譲(ゆず)り受けたり、買ったりして、大切にまた残るということもあります。そのものの価値は、価値のわかる人にしかわかりません。

お墓もそうだと思います。自分一人の考えで、何代も続いてきたお墓をなくしてしまうのは寂(さび)しいものです。

それぞれの魂を大切にして、子孫の方が拝みに来て安らぐ場所として、お寺もお墓も護(まも)っていきたいと思います。

七月八月の間は、施餓鬼会(せがきかえ)、お盆、棚(たな)経(ぎょう)、全国各地で同じように、ご先祖さまが帰って来られて、日本伝統の夏の行事が続きます。

どうぞ、阿彌陀寺にもお参り下さい。

                                  ⓢ

     南無阿弥陀仏    合掌